アラスカに残る18世紀のロシア語

ニニリチク村の子孫の人たちは私たちより年齢が上で、ロシア語は話しませんが、子どもの頃、家庭でロシア語がつかわれていたことを覚えています=Alamy/Legion Media撮影

ニニリチク村の子孫の人たちは私たちより年齢が上で、ロシア語は話しませんが、子どもの頃、家庭でロシア語がつかわれていたことを覚えています=Alamy/Legion Media撮影

アメリカ・アラスカ州には、ロシア語の方言がいまでも残っている。方言の出現やその習得について、文学博士でモスクワ国立大学外国語・地域学部言語学・情報技術講座教授のミラ・ベルゲリソン氏が語った。

-ご主人のアンドレイ・キブリクさんとともに、アラスカ州のニニリチク村を調査したとのことですが、それについてお話いただけますか。

 これは一調査ではなく、一大プロジェクトです。主人とともに1997年にアラスカに行きました。主人はこれよりずっと前からアサバスカ諸語を学び、中でももっとも接触の難しい、アラスカ内陸のアッパー・カスコクウィム(カスコクウィム上流)語を文書化するために、アラスカに行っていました。

 アラスカにいた時、アラスカ先住民言語センターのマイケル・クラウス所長が、ケナイ半島にはロシア語を固有の言語とする住民がロシア帝国の国策会社「露米会社」の時代から残っていると教えてくれました。ロシア語が18世紀から残っているというのですから、私たちは興奮しました。

ミラ・ベルゲリソン氏=プレス・フォト

 その後、アラスカ内陸部のニコライ村に行って、ニニリチク村に最初に移住した人の子孫と会いました。ニコライ村はアサバスカ人が暮らしている村(アサバスカ人も当時からの正教徒であるため、村の名前がこのようになっている)で、主人がアッパー・カスコクウィム語について記述した場所です。

 ニニリチク村の子孫の人たちは私たちより年齢が上で、ロシア語は話しませんが、子どもの頃、家庭でロシア語がつかわれていたことを覚えています。彼らにとってロシア語とロシアに関するすべての伝統が文化遺産なのです。現在アラスカの多くの場所で、先住民が自分たちの過去について関心を持ち、遺産を残そうとしています。

 ニニリチク村の人たちは自分たちの言語が消滅するとわかっているので、形で残すことを希望しています。そして私たちに辞書の編成を依頼してきました。名詞は民族の日常生活を反映するので、私たちは最初に名詞の辞書を作成しました。当時まわりにあった物や事象の名称です。音の記述の仕方がわからなかったら何もできませんから、現代ロシア語との規則的な発音の違いを見つけて、音写体系を選ばなければなりませんでした。この方言には文字がありませんから。私たちが出会った世代は、1917年に閉鎖されたロシア正教の教区学校の代わりに、1930年代に開設された英語の学校に通っていたので、ロシア語を書いたことがありませんでした。彼らのロシア語は、子ども時代に習得した母国語、第一言語なのです。

 主人が標準ロシア語との規則的な発音の違いについての記述を作成し、その後辞書プロジェクトにからめて、発音に関する論文を2人で複数作成しました。あとは文法や他の特徴についても書いています。主な違いは性の構造の変化です。

 これが最初の調査だったのですが、その後長い期間、中断状態にありました。2000年半ばになって、文化遺産保護活動家の一人で、シャイアン語の専門家であるニニリチク村のウェイン・リーマンさんが、ニニリチク・ロシア語の単語の編集活動を再開しました。ご自身はロシア語を知らないので、音を記述するのが困難で、集められた資料をロシア人が調査する必要がありました。

 これによってたくさんの疑問がたまったので、ロシア人文科学基金に2012年、調査助成金を申請し、受け取りました。2012年10月に再びニニリチク村に行き、辞書全体を調査することができました。もう少し現地調査ができれば、辞書プロジェクトを完了させることができます。これは写真や音の入ったマルティメディア辞書になります。

 

1997年に調査した時から2度目の訪問までに、方言に何か変化はありましたか。

 インフォーマントのレオンチイ・クワスニコフ氏とともに1997年に集めた資料と、比較しているところです。クワスニコフ氏は残念ながら亡くなってしまいました。

 ニニリチク・ロシア語は、アラスカが売却された1867年から20年間ほぼ孤立していた、限られた場所に存在していた言語です。クック湾には一隻も船が入港せず、この言語で話していた住人も200~300人以下と非常に少数です。

 そして個々の違いの重要性が著しいです。ニニリチク・ロシア語には多くの個人言語が存在し、何らかの名前が固有名詞になり、それぞれの固有名詞に文化遺産の一部である何らかの歴史が存在しています。また、ある家族の発音規則が、他の家族の発音規則と異なったりしています。家長がロシアの異なる地域の出身者で、現地の女性と結婚して家族をつくったりしているためです。あと当時大きな影響を及ぼしたのが、エスキモー人の集団に属する、2ヶ国語を話すアルティーク人です。

 ニニリチク村に英語の学校ができるまでの80年間、最初かつ唯一の言語はロシア語でした。そしてロシア本土の話者と離れていたことから、独自の規則にもとづいて発展していったのです。

 2012年に、独自の発音的特徴を持つ他のインフォーマントとも会いましたが、私たちがすでに記述していた体系にすべてあてはまりました。

 私たちの作業を完成させるためには、もう一度調査を行わなければなりませんが、インフォーマントの年齢が90歳近いので、急務です。進歩的なアメリカのお年寄りなので、スカイプが何かも知っていますが、技術はこの調査ではあまり助けになりません。しっかりと発音を聞き、質問をくりかえす必要がありますし、用語や文化のコンテクストなど、人間対人間の会話がとても重要な役割を果たすからです。

 彼らはこの言語を流暢に話すことができないので、すぐに英語になってしまい、会話の中でロシア語の語句を思いだします。私たちはこの時、いかなる小さな情報も逃さずに記録しなければなりません。

 ロシア語のエクメネの一部、そしてかなり特殊な一部ですから、これはとても重要になってくるのです。この方言の特徴とは、ロシア本土から長期間切り離され、最初にエスキモー、次に英語の話者に囲まれて存在していたことです。ニニリチク・ロシア語を例にして、言語表現の歴史的進化のプロセス、社会言語学の問題、そして生活様式などの文化遺産についてたくさん知ることができます。

 彼らは現在、自分たちのことをアメリカの先住民だと考えていますが、19世紀末、ロシア語の話者は自分たちがクリオールであると感じ、アラスカの土着文化の担い手だと考えていたのです。

 

元記事(露語)