1853年夏から度々来航し、日本側と条約締結に向けた交渉を繰り返していたエフィーミイ・プチャーチン中将(当時)率いるロシア使節は1854年11月、伊豆の下田で巨大な地震に見舞われた。地震に伴う津波によって、ロシア使節が乗船していたディアナ号は大破。修理のために伊豆半島の戸田に曳航を試みるも、沈没した。
この戸田という土地でロシア人と日本人の協力体制のもと、代船ヘダ号が建造されたことは有名である。ロシア人全員が去るまでの約6か月間、戸田村は史上まれに見る日露友好の土地となった。遭難した500人のロシア人と現地の日本人たちの交流については、実に様々な話が伝えられている。
宮島村に短期滞在
大破したディアナ号が曳航中に沈没すると、ロシア人たちは沈没地点に近い宮島村に暫く滞在した。宮島村では寒空の中、遭難したロシア人たちの救出に尽力し、食料や衣服を分け与えて、ロシア側を感激させている。
話が前後するが、下田で津波に襲われた時は、ディアナ号が漂流する日本人3人を救出し、その後船医らが上陸して下田の被災者を献身的に治療していた。その様子を目撃した日本側の交渉責任者である川路聖謨は、深い感銘を日記に書き残している。ロシア側も津波に際し死傷者が出ており、宮島村も被害を受けていたが、そのような苦境にあっても、両者は真に人間的温かみを持って互いを思いやっていたのである。
ロシア人たちの宮島村滞在は5日程度と短かったが、言い伝えによると、丁度その時期に地元の神社で奉納相撲があり、これにロシア人が飛び入り参加した。大兵のロシア人は連戦連勝し敵無しに思えたが、ついに地元の若者がこれを投げ飛ばし、双方から喝采を浴びた。若者はロシア人から記念にコーヒーカップを貰ったとのことだが、残念ながら由来書とともに第二次大戦時に焼失してしまった。
代船が建造される戸田村へ
さて、天然の良港である戸田での代船建造が早々に決まると、ロシア人たちは隊列を整えて出発。戸田村では、2つの寺をプチャーチンら使節と士官の宿舎に利用し、水兵らの住居には長屋が新築された。
当時の戸田村は戸数約700軒、人口3000人ほど。500人もの異国人が小さな村に滞在するというのは、当時の日本にとっては前代未聞の出来事である(なお、ロシア人の人数については資料によってばらつきがあるが、いずれも500人前後である)。世情は攘夷思想が吹き荒れ、決して穏やかではなかった。幕府は戸田村の周辺に複数の関所を設けて、人の出入りを厳重に警戒した。
戸田村も地震と津波によって死者30人を出した他、家屋の損壊や漁具の流失などの被害を受け、窮状は深刻であった。このように非常に苦しい時期に異国人の大集団を受け入れることになったが、現代に伝わる様々なエピソードは、実にのどかである。
村人との交流と友好
建前上、日本人と異国人の個人的な交流は御法度であり、戸田村でも役人が監視している筈であった。しかし、先の宮島村の事例と同様、500人の遭難ロシア人との共同生活の中で、そのような禁制はあまり徹底されなかったようだ。村人の間でも「もらうな、やるな、つきあうな」が合言葉だったらしいが、実際には交流の記録も言い伝えも、枚挙に暇が無い。
例えば川路聖謨の日記には、
「戸田村にはいささか垢ぬけた娘が2人いたが、どう知ったのか、ロシア人がその名を呼んでいる」
といった旨の記述がある。川路は幕府の高級役人だが、日記の記述からは、日本人と異国人との交流を気にしている様子はうかがえない。
後にロシア人らは3つのグループに分かれて順次帰国することになるが、最後のグループが乗船したドイツ商船グレタ号の日誌にも、ロシア人らが戸田の住民と親しくし、至る所に出入りしている旨の記述がある。ロシア人の中には日本語で挨拶をする者もいたらしい。
ロシア側で特に熱心に日本の習俗などを記録していたのはワシーリー・マホフ神父で、戸田の僧侶らと懇意にしていたようだ。マホフ神父は日本人の生活習慣から民家の様子、食物や嗜好品まで事細かに書き記しており、村内でかなり自由に行動していたと思われる。
他にもいくつかの話が伝わっている。
例えば、ロシア人たちは日本の履物を面白がり、手に入れた草履や下駄を履いて歩く者もいたという。一方戸田の村人たちは、ロシア人たちの長靴を珍しがった。
造船の現場では、日本の大工が用いていた墨壺が便利ということで、ロシア人たちに評判が良かった。
宿泊先の寺では、炉にかかる自在鉤に興味を抱き、住職の許可を得て、割って構造を確認したという話もある。自在鉤の構造自体は至極単純なものなので、驚いたそうだ。
蛇をたいそう珍しがり、皮を記念に持ち帰った者もいた。
日本人がロシア人から乾パンの類を貰ったことがあったが、未知の食べ物を敬遠してか、土中に埋めてしまったという話が伝わる。ロシア人から石鹸や牛肉を与えられたが、気味が悪いので受け取らなかった、ということもあったらしい。それとは別に、食料や酒の不足に困ったロシア人たちが、ひそかに村人と物々交換をしていたとも伝わる。村には密かに酒を売って儲けた者がいたという話もあれば、ただで飲み食いさせたという話もある。
また、ロシア人が真冬に水浴していたのにも村人は驚いた。
橘耕斎のロシア密航
最もトラブルも皆無ではなかったようで、人家に押し入ったロシア人数人が日本の役人に取り押さえられた事件もあった。
事件と言えば、橘耕斎の密航が最も奇妙な出来事と言えるかもしれない。脱藩浪人であったらしいこの男は、放浪の末に戸田村の寺に寄寓していた。プチャーチン一行が戸田にやってきた時、耕斎はロシア人らと交流し、禁制品の地図などを渡して役人に目を付けられたらしい。代船が完成すると、耕斎はロシア側の手引きで密かに乗船、そのままロシアに密航した。
耕斎らしき人物がロシア人たちと書簡をやりとりし、引き揚げ時に失踪した旨は代官所の報告に残っているので、不審な行動は監視されていたのだろう。ペテルブルグではロシア帝国外務省に通訳官として勤務。プチャーチン一行に中国語通訳として随行していたヨシフ・ゴシケヴィッチと協同で和露辞書を刊行した他、日本からの使節の接待に携わっている。明治7年(1874)に19年振りに帰国し、明治18年に東京で死去した。
今も残る日露交流の遺産
いよいよ進水式となったが、当時、村では新船の進水式というと丸一日かけて盛大に行うものだった。ところが、ロシア人たちはものの数分であっさり式を終えてしまったので、大層拍子抜けしてしまったという。
戸田村には滞在したロシア人の名前や特徴を記したメモも残されている。「マリ上手 カランダショフ」、「丸顔美男 シビンイン」、「三本画 ギリゴリユフ」、といった具合である。
戸田の宝徳寺には、「日露合作の掛軸」なるものが残っている。草花と蝶が描かれ、和歌が添えられており、複数の日本人の署名とともに、ロシア語でグリゴリエフという署名が添えられている。どうやら、もともと墨絵だったものに、絵心のあるグリゴリエフが着色し、ウツギの花を描き加えたらしい。
グリゴリエフが描いた樹木の絵も残っている。前述の「三本画 ギリゴリユフ」とは、このグリゴリエフの事だろう。「三本画」の意味するところは不明だが、グリゴリエフは何より絵に関連して人々の印象に残ったようだ。
また、古くから戸田村で名主を務め、ロシア人たちの滞在中は臨時の代官所として使われていた勝呂家にも、興味深いものが残っている。それは数枚の古く小さな紙で、カタカナでイロハが書かれ、その横にロシア語で発音が書かれている。ロシア語での署名や、頻繁に登場する日本人の俳号から判断するに、これは勝呂家当主の弥三兵衛と、ディアナ号の船医クロレヴェツキーの2人の筆によるもので、どうやら、お互いの文字を覚えようと努めていたようだ。
前述の通り、ロシア人らは3つのグループに分かれて、随時戸田を出港した。まず1855年2月に最初のグループはアメリカ商船で、3月にプチャーチンを含むグループがヘダ号で、最後のグループが6月にドイツ商船で日本を去った。
この最後のグループには最早仕事も残っておらず、あまりの退屈に苦しんでいたようで、日本側は道路工事でもやらせてはどうかと考えたが、実現しなかった。
ディアナ号が津波で大破した時、ソボレフという水兵が脱落した大砲によって圧死している。そして、戸田に滞在中も2人の死者を出している。下士官アレクセイ・ポトチキンは病死。水兵ワシーリー・バケーエフはあやまって猛毒のドクウツギの実を食してしまい、中毒死した。村人は哀れんで、ドクウツギの木を全て切り倒した。3人の乗組員の墓は、今も下田の玉泉寺にある。
また、戸田の宝泉寺にも「露人の墓」があるが、これは1970年に上記の3人を一緒に祀って建てられたものである。
戸田(沼津市)では現在もプチャーチン・パレードが開催され、多くの在日ロシア人が集まる。
180年を経た今も、戸田はロシア人で賑わうのである。