写真提供:タチアナ・シュランチェンコ
2月27日から28日にかけての深夜、クレムリンからほど近いボリショイ・モスクヴォレツキー橋で、野党指導者の一人であるボリス・ネムツォフ氏が射殺された。同氏は元第一副首相で、リベラル系野党「国民自由党」(略称・パルナス)の共同議長。
治安機関の調べによると、レストランを出て、赤の広場の方向から、キエフ出身の23歳の女性と戻るところを、白い色の外車から銃弾を直接浴びせられて即死した。女性に被害はなかった。
射殺した人物は今のところ不明で、容疑者は上がっておらず、拘束者もいない。目撃者は複数いるものの、彼らの証言は発表されていない。「暗殺も含めあらゆる説を検討している」と捜査委員会のユリア・イワノワ広報担当は述べた。
最近のネムツォフ氏をめぐる状況
ネムツォフ氏自身、最近複数のメディアへのインタビューで、生命の危険を感じていると述べていた。同氏は、これまで活発な反政府活動を展開してきており、3月1日に予定されている反政府派によるデモ・集会「危機に抗しての行進『春』」の組織者の一人でもあった。殺害の数日前には、ネムツォフ氏は、ロシア上下両院の議員133人の脱税を糾弾する調査報告を発表していた。
ただし、ネムツォフ氏の支持者たちは、ウクライナ南東部の親露派部隊をロシアの最高指導部が操っていることを証明すべく同氏が準備中であった報告の方をより重視している。
ボリス・ネムツォフ氏(1959~2015)は、1990年代から2000年代にかけて、まさにロシア政界の重鎮だった。1991~1997年にニジェゴロド州の初代知事を務めた後、中央政界に移り、政府で燃料エネルギー相(1997年)に就任。その後、エリツィン大統領のもとで、第一副首相となり、ロシアの独占市場と財閥と国家の癒着に反対の立場をとった。
エリツィン引退後の1999年から2000年までは下院議員となり、政府を厳しく批判する野党に転じた。
2004年、ネムツォフ氏が所属するリベラル派野党「右派勢力同盟」は、ウクライナの政治家ヴィクトル・ユシチェンコ氏の大統領選挙活動を公然と支持した(同氏は、この直後のオレンジ革命で大統領に就任)。2005~2006年、ネムツォフ氏は、ユシチェンコ大統領の顧問となる。
最近のネムツォフ氏は、様々な野党組織に加わり、複数の大規模な反政府集会を組織した。そのなかには、2011のロシア下院選と 2012の大統領選の「不正」を糾弾しての一連のデモ・集会も含まれる。
ネムツォフ氏殺害についてのプーチン大統領のコメントを、ドミトリー・ペスコフ大統領報道官がこう伝えている。この事件は「あらゆる点から暗殺とみられ、もっぱら挑発的な性格を帯びている」。大統領は捜査を自らの指揮下に置いた。
またペスコフ報道官は、ラジオ局「コメルサントFM」へのインタビューでこう述べた。「(ネムツォフ氏は)現政権に指導部にとって、政治的にはいかなる脅威でもなかった」「プーチン大統領や政府などの人気と比べれば、ネムツォフ氏は全体としては、一般市民より多少ポプュラーであった、という程度」
一方、ネムツォフ氏の弁護士であるワジム・プロホロフ氏はメディアに対し、ソーシャルネットワーク上でネムツォフ氏が脅迫を受けていたと語った。「どこかの愚か者」が「もうすぐお前を殺してやる」と書き込んでいたという。しかしプロホロフ氏は、これと事件は関係ないとし、殺害が政治的な動機によるものと確信しているという。
またプロホロフ氏の推測では、ウクライナの戦場から最近戻って来た人間に殺された可能性もあるという。ネムツォフ氏はしばしばウクライナに赴き、同国政府と接触していた。
なお、ネムツォフ氏は、ヤロスラブリ州議会議員を務めていたが、他の議員達も、同氏の支持者達も一様に、同氏の殺害はこの地域における活動とは無関係と考えている。
「これは制裁だ。<…>ネムツォフ氏は、様々な組織から迫害され、誹謗中傷を受けていた。彼は、ロシアが自由で、人権が最も上に置かれるような国になるよう戦ってきた。野党指導者がこれ見よがしにクレムリンの傍で殺されるなんて…。彼は真実のために殺された」。ネムツォフ氏の友人でやはり「パルナス」の幹部である、元首相のミハイル・カシヤノフ氏はこう語った。
野党は既に、モスクワ市当局と交渉を始め、同氏のはずれのマリイノ地区から都心に集会を移し、デモから追悼集会に変えようとしている。
元石油大手ユコス社長のミハイル・ホドルコフスキー氏もコメントを発表した。「ボリスの死は私と私の家族にとっても大きな悲しみだ。私たちは皆彼を愛していた。向こう見ずだが善い人間だった」
人々は、殺害現場を訪れ、花とロウソクを捧げている。
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