アレクセイ・ヨルスチ
モスクワ-ベルリンの特急に遅れまいと駅へ急ぐ。6年前にこの特急が開業して以来、飛行機を使ってヨーロッパに行くことをやめた。わざわざ空港まで行って長い時間待ち、到着してまた空港から移動するよりも、快適な列車に乗りながらスモレンスク、ブレスト、ワルシャワを通過して、6時間後にベルリン中心部の駅に直接到着する方が楽だ。
中国製の「レノボ」のアラームがなったから、目は完全にさめている。薄暗い11月の朝は、ラジオから聞こえてくるニュースと調和する。「ウクライナのドネツィクで再び銃撃戦があり、一般市民が死亡」、「イギリスのキャメロン首相が新たな対ロシア制裁について言及」、「NATO軍の演習がバルト三国で開始」…ヨーロッパ共通の家は私の夢の中に残った。ベルリンの壁崩壊25周年記念がヨーロッパの統一ではなく、新たな分裂を強調してもおかしくはない。
実際にそうではないだろうか。なぜ「新政治思考」の時代に夢見た分け隔てのないヨーロッパを失い、それを取り戻せないのだろうか。
西と東の共同作業のはずだったが
ベルリンの壁はイデオロギー対立の馬鹿げたシンボル。シンボルは崩壊し、互いを隔てる理由もなくなった。これは共通の認識であるが、対立の打開策の道筋については異なる見方がなされている。
ゴルバチョフ氏はヨーロッパ共通の家の設計を、東西の「エンジニア」の共同作業にすべきだと提案した。それぞれの希望が採用された、誰にとっても快適な施設を建設しようと。ゴルバチョフ氏はきっと、偉大なる同志アンドレイ・サハロフ氏の論理に従っていたのだろう。資本主義と社会主義の集約を呼びかけていたサハロフ氏とは、時に意見が合い、時に食い違っていた。現実には集約の代わりに、吸収が起こってしまった。
ソ連とソ連モデルの崩壊は、西側の精神的、歴史的、経済的な正当性の証明と、欧米に受け止められた。段階的なバランスの取れた接近、新しい質の創生となるはずだったものが、「ソ連の遺産」の素早い分配に変わってしまった。
このような西側モデルにもとづいたヨーロッパ共通の家の創設方法は、ソ連に続いてロシアも含んでいた場合にのみ、結果を出せたはずだ。そのようなリスクはあった。ソ連崩壊による崩壊的なインパルスは、苦労しながら止められた。ロシアとその一部が崩壊していたら、時間の経過とともに何らかの形でヨーロッパの統合プロジェクトに飲み込まれていったに違いない。しかしながらこれは起こらず、ロシアは西側のプロジェクト勝利の道で障害となった。自分たちの法的、規範的領域を隣国に一方的に拡大する以外の道を、ヨーロッパは知らなかった。
ヨーロッパはロシアを新ヨーロッパの同権の共同創設者として認めることができなかったし、ロシアは従属的役割を受け入れなかった。
25年前よりも深い堀
その結果、時間の経過とともにユーラシア共通の家になったであろうヨーロッパ共通の家の建設の代わりに、包囲が始まった。西ヨーロッパがアメリカの積極的な協力を得ながら冷戦で築いてきた建物の増築は、その後周辺への補助的な構造物の建築に変わった。遅かれ早かれこの作業は隣の領域、他の建物の壁へと広がっていくはずであったが、ロシアは1990年代初めの混乱から徐々に回復し、復興、再建に取り組んだ。そしてヨーロッパに再び堀が出現した。ただしそれは、25年前に大陸を隔てていた場所から東にずれている。その堀はある意味、以前より深い。それは明白なイデオロギーではなく、文化、歴史、気質の違いにもとづいているものだから。
真のヨーロッパ共通の家を建設する機会はあったのだろうか。ソ連が共産主義帝国ではなく、相互利益にもとづいた賢明な国として維持されていたら、ヨーロッパは真の同権の原則にもとづいて統合していたのだろうか。統合はブリュッセルとモスクワに2本の支柱を置いていただろう。エネルギー供給に危機など訪れない、バルト三国のような民主主義による完全な産業の空洞化などない、東の住民が西の安く違法な労働力になることのない、中央ヨーロッパの新たな軍事化やヨーロッパの安全保障の脅威の問題など25年後に生じない、別の構造が、集約の実となっていただろう。
ヨーロッパ共通の家の建設が決まった時点で、すでに時遅しだったのかもしれない。ソ連は回帰不能点を越え、西側は勝利を感じながら、合意などには興味を持っていなかった。そうであれば、我々が失ったヨーロッパは、そもそも夢想家の頭の中でしか存在していなかったことになる。
1989年晩秋の極めて感動的な映像を忘れることはできない。幸せそうなベルリンの住民が、もう壁はないと歓喜していたその場面を。もうその壁があらわれることはないと、心から信じていた瞬間を。
フョードル・ルキヤノフ、外交・防衛政策会議議長
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