ロイター通信撮影
クリミア半島がウクライナに入った経緯
クリミア半島には紀元前から人々が暮らしているが、その歴史の中で民族構成や統治国家の変化を何度も経てきている。クリミアは1441年にクリミア・ハン国として独立したが、1475年にはオスマン帝国の宗主権を承認。300年に渡ってタタール人は広く自治権を握るスルタンに服従し、北方からの脅威から宗主国を守り、奴隷を供給し続けた。露土戦争が終了した1774年にロシア帝国に併合された。
クリミア・タタール人は1944年までこの地に暮らした。ロシア革命(1917年)の際にタタール人が独立したハン国を復活させようとしたこともあったが、結果的にソ連の領土に戻っている。ソ連政府はクリミア・タタール人を保護し、クリミア半島を自治共和国としたものの、第二次世界大戦中のドイツによる占領(1941~1944年)とタタール人のドイツ占領軍への協力があったことから、クリミア・タタール人を東方へ追放した。クリミア半島は1954年に自治権を喪失し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部となった。これはロシアとウクライナが再統合したペラヤースラウ会議300周年記念としての編入とされているが、実際にはモスクワではなく、キエフが管理する方が地理的に簡単だったからにすぎない。
クリミア半島をめぐる攻防
ソ連崩壊後の1990年代、クリミア半島をめぐってさまざまな思惑がうごめいた。まず第一に独立したウクライナはクリミア半島のウクライナ化を試行。地元住民の反発を買った。第二にゴルバチョフ政権時代に帰還を許されていたタタール人は、失った土地と特権を取り戻すべく、混乱を利用しようとした。第三にソ連海軍の重要な基地となっていたセヴァストーポリについて、ウクライナとロシアが対立した。
紆余曲折を経て、クリミア半島はウクライナから分離こそしなかったが、国内唯一の自治共和国になり、通りの名称の一部変更を除けば、ほぼロシアとして残ることが許された。そして今回のキエフの「欧州広場」に発する革命――。
ここは誰のもの?
二つの重要な側面がある。一つ目は民族文化的側面、二つ目は経済的側面。
クリミア半島はウクライナ国内でもっともロシア色の強い地域だ。住人の58%がロシア人、24%がウクライナ人、12%がタタール人。ロシア語を母国語としているのは4分の3の住人で、ウクライナ語は10分の1だが、キエフ国際社会学研究所の調査によると、97%がロシア語を使用している。
クリミア半島には地元の経済エリートや、ヨーロッパに直結した経済エリートはほとんどいない。ウクライナ独立後、クリミア半島は窮乏化した。1990年代後半にウクライナの富豪がこの地のリゾートに関心を向け、投資を行ったが、これは地元の資金ではなかった。だから、欧州連合(EU)やアメリカがかけひきに加わったとき、クリミア半島のエリートは、ドネツィクやドニプロペトロウシクのエリートのようには、御しやすくなかった。資金というテコがないからだ。
この二つの要因により、クリミアは、キエフの衝突に巻き込まれずにはいなかった。最初に野党への不満、その後政府に対して治安の安定を求める声があがったが、ペラヤースラウ会議360周年とウクライナ編入60周年前に始まった情勢の悪化が、クリミア半島の正式な反応を呼び起こしてしまった。
現地のムード
クリミア自治共和国最高会議幹部会は2月19日、ウクライナで内戦が始まっていることを強調し、キエフの治安を安定させるための緊急措置を講じるようビクトル・ヤヌコビッチ大統領に求めた。ウラジーミル・コンスタンチノフ議長はロシアを訪れ、ロシア連邦下院(国家会議)の議員に対し、「ウクライナの合法政府が変わるようなことがあれば、クリミア半島はウクライナからの分離問題を提起する」と話した。
クリミア半島ではすでに政情不安の影響が経済に及び、「欧州広場」で負傷した警察が地元に戻り、住民はウクライナの民族主義者に対していらだちを感じている。今後どうなるのだろうか。
三つの可能性
一つ目はすべてが元通りに落ち着くことだが、その可能性は低い。
二つ目はクリミア半島が自治権を拡大する。これは、ウクライナの連邦化に合意があって安定した場合に可能になる。
三つ目はウクライナから分離してロシア保護下の「未承認国家」になる。キエフに新たな政権が誕生しても、暴力で分離を妨害することは不可能だ。独立したウクライナには軍がほぼ不在であり、混乱によって経済的な基盤もほとんどない。ただし、クリミア半島内でタタール人対ロシア人の衝突が起こる可能性はある。
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