ケネディを捉えた三発の銃弾

暗殺者の死亡直前の叫び。ルビーは近距離から発砲したため、外すことはあり得なかった。

暗殺者の死亡直前の叫び。ルビーは近距離から発砲したため、外すことはあり得なかった。

諜報機関の退役大佐オレーグ・ネチポレンコ氏は、ジョン・F・ケネディ米国大統領の殺害者を知っていた。暗殺の少し前、同氏は、外交官として在メキシコ・ソ連大使館に勤務し、査証を求めて訪れたリー・ハーヴェイ・オズワルドと面会していた。退役後、ネチポレンコ氏は、作家になり、ケネディ大統領暗殺についての数冊の著書は、ベストセラーとなった。では、同氏とのインタヴューの第二部をご紹介しよう。

―オズワルドのような人物が単独で米国大統領を殺害することは可能だったのでしょうか?アメリカの万全の警護があり、しかも、本人は射撃の腕が悪かったにもかかわらず 

 可能でしたね。「ナリーム(カワメンタイ)」(オズワルドのあだ名)が射撃が下手だなんて誰が言いましたか? ミンスク時代に彼は単銃身の猟銃を買って狩りに出かけており、米国でもライフル銃を手に入れました。

 

―あなたは、ケネディ暗殺の少し前にダラスで「ナリーム」がソ連の査証を求めた際に本人と会話をした三人の在メキシコ・ソ連大使館の職員の一人ですが、なぜ発給は拒否されたのですか?躊躇させた理由とは? 

 オズワルドの自宅では、ケネディ暗殺後、ソ連への入国申請を拒否する私たちの文書がアメリカ側によって発見されました。もしも査証が発給されていたなら、とんでもないことになっていたでしょう。1963年9月27日、オズワルドは、大使館にやってきました。最初は脱力状態のようでしたが、次第に話に身が入り、ミンスクでの生活のことやソ連人との結婚について語りはじめ、連邦捜査局(FBI)に絶えず監視されていることを、再びソ連へ渡りたい理由として挙げました。苛立ちまじりの話しぶりで、だんだん興奮してくるので、どこか神経衰弱のように思えました。ミンスクでオズワルドが私たちの監視の下にあったことは確かですが、彼と協力しようという考えは端からありませんでした。

 

オズワルドと、マリーナ夫人、おばのワレンチナ、おじのイリヤ。ソ連出国が間近。


―それはなぜ?

 彼は、実際的な活動には向いていませんでした。ロシア語は話せましたが、とても不正確で、発音もひどく、ときどき英語に変わるのです。大使館での二度目の面会は私の二人の同僚が担当しましたが、彼らにも彼が神経衰弱のように思われました」。

 

ネチポレンコ元諜報員、1993年にダラスにて。

背景には現場の教科書倉庫が

―どうやってケネディを暗殺したのでしょう?

 一言でいえば、オズワルドは信じられないほど好条件に恵まれ、逆に、ケネディやアメリカや私たちにとってそれは悲惨な条件でした。

 1963年11月22日、彼は、大統領の行列が通過するコースで最も殺害に適した場所の一つであるダラスのデイリープラザ広場を大統領暗殺の場所に選びました。そこでは道が急に折れ曲がるところが二ヶ所あり、一つは90度、もう一つは120度、カーヴしていました。オズワルドは、まさに行列が通る教科書倉庫の入った建物で働いており、彼は、支障なくそこへ立ち入り、前もって光学照準器つきの自分のライフル銃を隠しておくことができました。

 驚いたことに、警察はコース沿いの建物を点検していませんでした。ふつう、特務機関にはそうしたチェックを行う必要はないのでした。生じた状況を正しく分析するために、私は、ロシアの法保護機関の職員をこの調査活動に参加させました。彼らの指導者は、選択の正しさを確認し、彼も、教科書倉庫の建物を最適な隠れ場所とみなしました。そこなら銃架にのせて直接照準射撃が行えるので、射撃の効率がぐっと高くなります。狙撃手と対象の相対角度や通りの勾配も、後ろから狙うのに好都合でした。

 

―つまり、腕の良くないスナイパーでも撃ち損じないということですか? 

 ええ。専門家らも言うとおり、すべてこうした条件が、腕の悪さをカヴァーしてくれるわけで、中級の射撃手でさえ、射撃の高い効率を保障できます。オズワルドによって放たれた三発の弾丸は、目標をみごとに捉えていました。

 

写真は、オレグ・ネチポレンコ著『大統領に命中した三発の弾丸』所収のもの。