緊迫の10月政変

タス通信撮影

タス通信撮影

イギリス放送協会(BBC)ロシア語放送のグリゴリー・ネホロシェフ記者(1988~1995)が、ベールイ・ドーム(当時のロシア最高会議ビル)とオスタンキノ・テレビ塔で起こった1993年の10月政変について語った。

 今から20年前の1993年、私はベールイ・ドームの廊下の壁にもたれて座りながら、自分の運命を覚悟していた。私から数百歩ほど離れた、廊下の両端にある即席の待機所には、迷彩服を着てカラシニコフ銃を手にした、25~30歳の青年がいた。彼らはアレクサンドル・バルカショフ氏のロシア民族統一党の兵士だ(超国家主義的武装活動)。

 ロシア連邦最高会議とエリツィン大統領の対決4日目についての現場報告を伝えるため、ベールイ・ドームから出て、BBCの記者ステーションに戻ろうとした午前2時ごろ、私は兵士につかまった。当時携帯電話はほとんどなく、最高会議の固定電話は止められていたため、現場報告を行うためには、2~3時間置きに街に出て、最寄りの電話ボックスから電話をするか、あるいは議会派勢力のインタビューの録画テープがある場合は、ロンドンに送るために記者ステーションまで行かなければならなかった。

 最初の4日間は、特に問題は起こらなかった。ところが25日夜になると、ベールイ・ドームの廊下に数百人もの武装したロシア民族統一党の兵士が現れ、新しい規則を決め始めた。一人の兵士が、私の外務省発行の記者認証書をながめながら、こう言った。「BBCの記者か、なるほど。なら撃ち殺さなきゃな。お前は敵。それも危険な敵だ」。

 私の説明を誰も聞いてくれなかった。私は調べられ、口述録音機と書類の入ったカバンは没収され、2人の兵士の目が届く、壁際の場所に座るよう命じられた。非常灯のぼんやりとした明りのもとで、私は1時間半ほどじっと座っていた。電気も止められていた。また水も止められていたため、トイレからは排泄物の強い臭いがただよっていた。

 午前4時頃、例の兵士が戻って来た。「ルツコイが、朝になったらお前を解放しろと命令した。運の良いやつだな。しばらくは生きられるぜ」。そして私はどこかの部屋に連れて行かれた。そこには最高会議のロゴのついた紙がバラバラに散乱していて、机の上で他の2人の兵士が寝ていた。私は眠たくはなかった。

 兵士は私に、なぜロシア人なのに、敵のイギリス人のために働いているのかと質問してきた。「アメリカ人もイギリス人もロシアの最大の敵だ。やつらは偉大なるロシア正教が世界で伝道されるのを恐れているから、長年のロシアの共同体的な生活を何年もかけて壊そうとしているのさ。ポルノや自由放任主義でロシア人を堕落させようとしている。テレビを見ているか?どこもポルノだらけだ」。

 私は怖かったため、議論をしようという気にはなれず、ただ記者として働いているだけで、哲学的な話はよくわからないと話した。見たことを伝えるのが私の仕事。ここでは似たようなことが他にもたくさん起こっていた。日本の時事通信社のダニラ・ガリペロヴィッチ氏は、ロシア民族統一党の兵士に3回もつかまった。

 悲劇的な結末が近づくにつれ、記者に対する攻撃は強まった。どちらの勢力も我々を傍観者ではなく、この事件への積極的な関与者と見なしていた。この時非常にたくさん集まっていた、ベールイ・ドーム周辺の野次馬ですら攻撃的だった。そして近隣の住民もそうだった。窓の外で起きている事件に疲弊していた。

 だがあえて少額ながらお金を払って、現場の近隣アパートに滞在していた人もいたことが判明した。CNN、ABC、CBCの即席記者ステーションが、近隣アパートの上階に設置されていたのだ。ベールイ・ドームへの襲撃や、その敷地での衝突の鮮明な映像が撮れていたのは、このためだ。

 10月3日夜になると、主な事件現場はオスタンキノ・テレビ塔に移った。武装した議会派勢力が占拠しようとしたのだ。襲撃しようとしている群衆の中には、数百人以上のジャーナリストがいた。テレビ塔の上からは、特別な部隊がすぐに射撃を始めた。私から200メートル以内の場所で、ロイター通信のズラブ・コダラシヴィリ特派員と、フランス通信社のステファン・ベンチュラ記者が、地面からフランス通信社のピエール・セルリエ記者を起こそうとしていたのを覚えている。私はそこに行こうとしたが、群衆にさえぎられてしまった。その後知ったことだが、銃弾がセルリエ記者の防弾チョッキを貫通して背中に当たったために、ケガをしたそうだ。あの時ドイツ公共放送連盟(ARD)のロリー・ペック特派員と、フランスのテレビ局TF1のイヴァン・スコパン記者は死亡した。ペック特派員は社交的な青年で、誰もが彼のことを知っていた。カメラを持って、ソ連のあらゆる”ホット・スポット”をまわっていた人物だ。

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 一睡もしないまま、ジャーナリストの多くがベールイ・ドームに戻ると、明け方に攻撃があると聞かされた。その情報の通り、朝6時になると、クツゾフスキー大通りの方向から、戦車の列がやって来た。そして砲撃が始まった。電話ボックスから数十件の現場報告を行った後の正午頃、私は疲れから倒れそうになった。その時ふと、新アルバート通りの高層アパートの上階に、アメリカ人の知り合いがワンルーム・アパートを借りていたことを思い出した。

 アパートに行ってみると、窓際にはフォーブス誌のポール・フレブニコフ記者が座っていた。私たちはまるで劇場の観客席に座って演劇を見ているかのように、窓際に数時間じっと座っていた。フレブニコフ記者はたまにメモ書きをし、私は1時間半置きにキッチンに行って、電話で現場報告を行った。

 我々の目の前には、ベールイ・ドームの全景が広がっていた。午後3時ごろ、新アルバート通りは装甲車両でうめつくされた。ライフルやマシンガンを持った人々がベールイ・ドームの屋上に現れると、装甲車両は屋上に向ってマシンガンで攻撃を始めた。すると突然、我々のいる建物の屋上から報復攻撃が行われる音が聞こえた。我々はすぐさまアパートから廊下に飛び出し、床に横たわった。この時銃弾が廊下の窓を貫通し、天井ではね返ってタイル張りの床に当たり、タイルを壊した。その破片がぶつかって私の前頭骨は骨折。前額部から血が流れ出した。隣のアパートの扉が開き、隣人が招き入れてくれた。男性と女性、7歳ほどの少年が、アパート内のより安全な廊下に座っていた。一緒に廊下に座ると、少年が私の血を見て、「おじさんが殺された、ママ、おじさんが殺された!」と叫んだ。私は反射的に「殺されたんじゃなくて、酔っぱらってたから滑って転んじゃったんだよ」と答えた。少年はこれを聞いて微笑んだ。

 フレブニコフ記者は、「ソ連政府の終焉だ」と言った。亡命ロシア人の息子、デカブリストのプシチンの子孫であるフレブニコフ記者は、ロシア語版フォーブス誌の編集長になるために、この事件の数年後にロシアに戻って来た。彼はソ連のロシアではなく、新しいロシアで殺された。