「ロシアの日」とは何か?

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国大統領の初の選挙が行われ、ボリス・エリツィン・同共和国最高会議議長が圧勝した =タス通信撮影

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国大統領の初の選挙が行われ、ボリス・エリツィン・同共和国最高会議議長が圧勝した =タス通信撮影

アメリカにならって独立記念日として新生ロシアの創始者たちによって考案された祝日は、新たな夏の休日となり、単に「ロシアの日」と呼ばれるようになった。それは、結局、ロシアが何から独立を手に入れたのか、誰にもわからなかったためだ。

1990612日にロシア共和国が主権宣言を採択 

 ロシアでは、この日はすでにほぼ20年にわたり祝日とみなされているが、事の始まりは、1990年6月12日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民代議員大会が国家主権に関する宣言を採択したときに遡る。今の人々はなぜそれが為されたか理解に苦しむであろうが、1990年の当時もこの宣言はその内容よりも象徴的な意味のほうが際立っていた。

 その頃、ソ連邦構成共和国の議会は、次々と自国の主権宣言を採択しており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国も、もはや傍観してはいられなくなった。大会の代議員たちは、ほぼ全会一致でこの問題を議題に含めたが、最終文書をめぐって審議が紛糾し、作成作業は一月を要し、宣言は6月12日に採択された。

 

1991612日に同共和国大統領選挙でエリツィン圧勝 

 1991年の同じ日、つまり6月12日に、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国大統領の初の選挙が行われ、ボリス・エリツィン・同共和国最高会議議長が圧勝した。

 この日に選挙が行われたのは、状況的な理由とイデオロギー的なそれがあった。ボリス・エリツィンのチームは、投票日がずれ込むと有権者が休暇やダーチャに出かけてしまうため第一回投票で勝利を確実にすることが難しくなると考えていた、というのが第一の理由だ。

 しかし、イデオロギー的な理由のほうがはるかに重要であった。新生ロシアの建設は、二つのイデオロギー的な支柱に基づいていた。何よりも、それは、ソ連以前のロシアの伝統への回帰である。

 その当時流行りだした、昔ながらの商人趣味や貴族趣味(「商人階級」や「貴族会館」がいたるところに現れはじめた)も、「ゴスポヂーン(~さん)」という言葉の復活も、すぐにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の正式の国旗とみなされるようになった三色旗も、まさにそれに由来する。「ボリシェヴィキ以前の時代」への回帰という思想は、新生ロシアの政権のシンボルとなった。レニングラードからサンクトペテルブルグへの改称の是非を問う住民投票が1991年6月12日に実施されたのも偶然ではない。

 

612日:作られたシンボル 

 しかし、当時、ロシアの為政者たちは、何もない場所に国を築いた米国の創設者たちの気分を楽しんでいた節がある。シンボリックな文書である宣言の採択の日を国民の祝日にするという決定も、それで説明がつく。エリツィン時代前期の中心的なイデオローグであったゲンナジー・ブルブリスは、シンボルに大きな意義を付与していた。新生ロシアの大統領は、主権宣言採択の日に選ばれなくてはならなかった。

 それは、次のようなアプローチの一部であった。すなわち、我々は新しい国を築きつつあり、我々は新しい国家および社会の地平ならびにその伝統を創りつつあり、それゆえ、期日の一致は、イデオロギー的な意義を有するべきである。

 まだ存在していたソ連邦構成下の共和国であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の人民代議員大会は、当初、そのゲームを支持し、それに参加しさえした。1992年、最高会議の決定に基づいて、6月12日は祝日となった。1994年、ボリス・エリツィン氏は、これを自身の大統領令によって揺るぎないものとした。最高会議は、1993年10月にすでに解散させられていたので、その決定によって国の日を制定することはできなかったのである。しかし、その頃には、その日をめぐる熱は冷めていた。

 

何の何からの独立か? 

 「独立記念日」という非公式の呼称がさまざまな疑問を生んだのも偶然ではなかった。

 最大の疑問は、何の何からの独立かというものである。1990年6月には、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がソ連邦の構成下から脱け出るとは誰もが想ってもみなかった。主権宣言は、連邦指導部とエリツィン・チームのあいだの単なる政治的ゲームのエレメントにすぎなかった。

 第二の疑問は、ソ連邦崩壊におけるロシア指導部の役割に関するものであった。1990年代半ば頃には、国の消滅は、「20世紀最大の地政学的カタストロフィー」(後にウラジーミル・プーチン氏はそれをこう呼んだ)と呼ばれはしないものの、すでに多くの人によってそう受け取られていた。まさにその時期、ソ連邦へのノスタルジーが社会に広がり、エリツィン・チームにおける急進改革派の重みはなくなりつつあったので、エリツィンの側近の新しい世代には、この祝日が政権に対する権利の裏づけとして必要であった。

 まさにそれゆえ、1990年代半ばから、6月12日は、みんなに歓迎されはしても理解されるわけではない休日、5月の連休と夏休みのあいだの中休みとなった。

 そのかわり、時を経るにつれて、それは、ますますオフィシャルで華やかな祝日となっていった。祝日の公式サイトは、6月12日の5周年をこう描写している。

 「ほぼすべての地域の首長は、この日を目前に、独立記念日を記念する祝賀行事の実施に関する決定を発布した。そして、初めてこの祝日は真の祝日となった。ロシアの都は『祝、独立記念日』と記されたプラカードや広告で彩られ、クレムリンでは国家賞の授賞式が催された」。

 祝日の当初の意味合いが完全に失われたのは、ボリス・エリツィン氏が祝日の呼称を改めた1998年であり、それは単に「ロシアの日」と呼ばれるようになった。宣言、主権、創設者、ボリシェヴィキ以前の時代への行進は、遠い過去のものとなり、前途には、デフォルト、チェチェン戦争の終結、ウラジーミル・プーチン氏、そして、未知なる新しいロシアがひかえていた。