定まらない評価

政ロシア(ロマノフ朝)最後の皇帝、ニコライ2世(1868~1918)。1917年の10月革命後に幽閉後、皇后、子供5人と共に銃殺される数奇な生涯だった。受難は死後も終わらない。皇帝の遺体の認否はソ連時代から論争になった。それ以上に結論が定まらないのは皇帝に対する歴史的評価だ。新生ロシアでも為政者の思惑が絡み、ニコライ2世像は揺らぎ続けている。

ナタリア・ミハイレンコ

 ニコライ2世のイメージは3度の顕著な変化を経てきた。

 

政治的弱者

  1990年代初頭はペレストロイカ期の視点を受け継ぎ、皇帝のみならず子供たちや召使いまで処刑されたことはソ連の粛清の先駆けとみなされた。

 ニコライは何となくメランコリックで政治的に弱い人物というイメージが定着していた。

 

聖人への道

 亡命正教会は1981年にニコライ2世を列聖し、ロシアでも彼を聖人として崇敬する機運が生じる。

 しかし、本国のロシア正教会は90年代前半、列聖に反対した。ニコライ2世が自ら退位したことは教会の掟に背くとみなされ、ピョートル1世が廃止した総主教座の復活にニコライは反対したからだ。

 1971年にリャボフ=アブドニンのグループが発見した遺骨に関しては、教会と歴史家の一部が疑問を投げかけた。

 

聖なる権力の象徴

 1996年以降のエリツィン政権の第2期、リベラル派は揺らぎ始め、社会の深刻な分裂をもたらした。西側に速やかに統合されるとの希望は消えた。

 半面、ニコライは保守派の抵抗とロシアの聖なる権力の重要な象徴となった。ロシアの権力は、神なき西欧文明が全世界にめぐらす陰謀から自国の民衆と信仰を守ってくれる、というわけだ。

 

遺骨鑑定委員会

 ニコライ2世一家のテーマは90年代に新聞紙上から消えることがなかった。エリツィン大統領が93年発足させた遺骨鑑定委員会は5年間活動した。遺骨の鑑定と真贋(しんがん)論争は98年の改葬で一応終わったが、鑑定結果を認めない者もいる。

 

プーチン氏の登場

 分裂した社会を受け継いだプーチン大統領は1期目に「20世紀ロシアの長い内戦」を終わらせ、「白軍」と「赤軍」の和解を試みた。

 ソ連国歌を復活させると共に、君主制に親近感を示す作家ソルジェニーツィンと交流し、モスクワのダニロフスキー修道院に亡命先で死んだ白軍将校たちを改葬した。

 

ロシアの偉人の一人に

 2期目の2005年以降、強固になったプーチン体制は「ロシアの偉大さを体現した」パンテオンを作ろうとした。 祭られるのは中世ロシアの英雄ネフスキー、独裁者スターリン、レーニン、宇宙飛行士ガガーリンら。ニコライ2世もその一人だ。

 しかし、00年代後半、テレビはニコライにはあまり焦点を当てず、スターリンと当時の軍人たちの「偉業」を語る番組をのべつ幕なしに放映した。ロシア史は再び「強い権力史」に替えられた。

 1994年、「真の愛国者と考える歴史的人物」を尋ねたアンケートで、ニコライ2世は上位10人に入らず、彼を愛国者としたのは5%だけだった。

 

好転した評価

 この状況は2013年に一変する。世論調査機関「レバダ・センター」によると、エリツィンとゴルバチョフへの肯定的評価は4%と 3%。一方、スターリン13%、ブレジネフ13%、ニコライ2世14%だった。 ニコライは否定的評価が一番少ない。しかも独裁者にみなされていない。

 

「400年」は地味に  

 プーチン大統領は「矛盾のない」ロシア史を書けと呼びかける。その新ロシア史でニコライ2世の評価は定かでない。 今年はロマノフ朝400年であるのに地味に祝われた。代わりにクレムリンは第1次世界大戦開始(1914年)から100年を大々的に祝うことを決めた。軍事的テーマは「啓蒙(けいもう)された権威主義」にうまくはまるのだ。

 

アレクサンドル・モロゾフ、政治学者