プチャーチンロードパレード

 沼津市戸田ですでに7年間、戸田港ゆかりのロシア提督、エフィム・プチャーチンにちなんだパレードが行われている。パレードは、夏恒例の「戸田港まつり」と合わせて、当地で毎年7月末に開催されている。

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 アメリカのマシュー・ペリーが初の来航から再び日本に接近し、日米和親条約を調印した半年後の1854年11月、当時副提督だったプチャーチンは、日本と条約を結ぶため、外交使節団とともに下田に来航した。しかしながら、安政東海地震が発生し、プチャーチンらの乗船していた「ディアナ」号は津波で大きく損傷した。この修理の地に選ばれたのが戸田港だった。だが、そこへ向かう途中、荒波で船は浸水し、沈没。プチャーチン一行は戸田村に避難し、大きく損壊した村の復興を手伝った。日本の船大工らは、ロシアの水兵を帰国させるため、縦帆船「ヘダ」号を半年弱で建造した。これは日本初の西洋船となった。

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 今年のパレードは、ボリショイ劇場や映画スタジオ「モスフィルム」の衣装を制作するモスクワのアトリエに特注された歴史的な衣装で、華やかさを増した。

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 衣装は当時のロシア帝国の軍服に極めて近い仕上がりになっている。ラシャ(毛織物の一種)の代わりに着色されたビロードが使われているところが、唯一違う点だ。日本の夏の条件では、プチャーチン提督自身でも毛織物の服を30分も着ていられないだろう。

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 プチャーチン提督以外に、将校や水兵もパレードに参加する。日本の歴史絵巻の正確な再現である。ロシアの水兵役になったのは、在日ロシア人。

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 パレードの後、沼津市に衣装が寄贈された。衣装はヘダ号の木製の模型とともに、博物館に展示される。

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 パレードは戸田港まつりが行われている港で始まり、プチャーチン提督が滞在した宝泉寺で終わった。

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 宝泉寺では、パレードの後、戸田に避難した際に死亡した2人のロシア人水兵ヴァシリー・バケエフ(野生の漿果で中毒死)とアレクセイ・ポトチキン(病死)の法要が行われた。

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 パレードには地元住民も参加し、ロシアへの帰国用の船の建造を手伝った日本人の肖像画の入ったプラカードを運んだ。

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 戸田港まつりでは、日本の伝統的なたこ焼きだけでなく、ロシアのピロシキもあり、またマトリョーシカも販売されていた。

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 恒例の段ボール製の船の競争もあり、参加者が力作を持ち寄った。この見ごたえのあるイベントは、戸田村が西洋船建造の発祥地である歴史、日本とロシアの関係が始まったできごとに目を向けさせるもの。

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 戸田には今のところ、あまりロシア人旅行客は来ていないが、まつりの主催者はプチャーチン提督のパレードで増加すればと期待している。

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