ニコライI世:王冠を被った戦士

 エカテリーナ大帝の孫にあたるニコライに、皇位継承の見込みはそう高くなかった。しかし、長兄であるアレクサンドルI世の崩御と、次兄コンスタンチン大公の皇位継承権放棄によって、1825年12月、玉座を占めることになった。//ウラジーミル・スヴェルフコフによる肖像画

 エカテリーナ大帝の孫にあたるニコライに、皇位継承の見込みはそう高くなかった。しかし、長兄であるアレクサンドルI世の崩御と、次兄コンスタンチン大公の皇位継承権放棄によって、1825年12月、玉座を占めることになった。//ウラジーミル・スヴェルフコフによる肖像画

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 おそらくロマノフ王朝で最も専制的かつ好戦的な皇帝、ニコライI世が、7月6日、生誕220年を迎えた。ニコライI世は献身的な軍人として、在位中、国内外の敵と死に物狂いの戦いを続けた。
 父のパーヴェルI世皇帝がクーデターで殺害された1801年、ニコライは若干4歳だった。母のマリア・フョードロヴナ(旧名ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク)に育てられた彼の胸には、軍務にかける父譲りの情熱が燃えていた。//ワシーリー・ゴーリケによる肖像画
 衛兵交代式やパレードを見れば血の騒ぐ16歳のニコライ少年は、1812年、フランスのロシア侵攻の模様を狂おしいほど見たがったが、兄のアレクサンドルが入隊を許可したのは、1813年のドイツ戦役になってやっとのことだった。//1814年。パリのロシア軍部隊。画家不詳
 新しく即位した皇帝は、すぐに行動を開始した。1825年12月、デカブリストの乱(自由を求めて君主制打倒に立ち上がる反乱軍将校グループに率いられた蜂起)を鎮圧。将校の一部は絞首刑に処され、多くがシベリアに流刑された。//デカブリストの乱に騒ぎ立つペテルブルクは元老院広場のニコライI世。画家不詳
 治世の始まりが波乱に満ちたものであったため、ニコライI世は権力を強化する必要性を確信。最初期の勅令により、皇帝官房第三課を創設した。革命等の騒乱の防止を任務とする秘密警察だ。//ジョージ・ドーによる肖像画
 またニコライI世は、当時の多数の重要作家に対するスパイ活動および検閲を命じた。対象者の中にはアレクサンドル・プーシキンもいた。皇帝は彼をリベラル派の頭目、危険人物であると見ていた。//表にニコライI世、裏面にその家族を描いた、いわゆる「ファミリー・ルーブル」(1836年)
 一方でニコライI世には、若きレフ・トルストイの文学的才能を賞賛し、ニコライ・ゴーゴリの代表作「死せる魂」を称揚するに足る慧眼があった。//ペテルブルクの冬宮にあるニコライI世の広大な書斎。エドゥアルト・ガウ画
 しかし、文学にも増して皇帝が心を寄せたのは、工学であった。ニコライI世は自ら当時のロシアにおけるほぼすべての主要な建築・道路建設プロジェクトに関わった。 //建設現場におけるニコライI世。ミハイル・ジヒ画
 ペテルブルクとモスクワを結ぶロシア初の鉄道の建設を立案し、1851年に完成させたのも、ニコライI世である。敵の盗用を防ぐためにレールゲージを幅広にするというのも彼のアイデアだった。//ペテルブルクのニコラエフスキー駅(現モスクワ駅)。A.V.ペットソルト画
 この先見の明がいかに予言的であったかは、100年後の1941年、ナチスドイツ軍の侵略の際に証明された。//ペテルブルクのモスクワ駅(旧ニコラエフスキー駅)に建つニコライI世記念碑
 ニコライI世の革命憎悪はヨーロッパにまで波及した。積極的な軍事行動によりポーランド蜂起(1830)およびハンガリー蜂起(1848-1849)平定を図ったさまは、「ヨーロッパの憲兵」としてのロシアのイメージに貢献した。 //親衛兵らにポーランド蜂起を告げるニコライI世。ゲオルグ・ベネディクト・ヴンダー画
 ヨーロッパの緊張は沸点に達し、クリミア戦争(1853-1856)と呼ばれる大規模軍事衝突が勃発。ロシアは黒海、バルカン半島、コーカサス、さらには北極海で、イギリス、フランス、サルデーニャ、オスマン帝国からなる連合軍と戦った。 //シノープ海戦。イワン・アイヴァゾフスキー画
 名高いセヴァストポリ攻囲戦を含め、3年間に及ぶ激戦の末、ロシアは降伏を強いられ、黒海艦隊を放棄した。//バラクラヴァ(クリミア)の戦い。軽装旅団の救出、1854年10月25日。リチャード・カトン・ウッドヴィル画
 一説によれば、クリミア戦争での敗北が、1855年3月、ニコライI世が58歳で急逝する遠因になった。//フランツ・クリューガーによる肖像画もっと見る:ロマノフ家、最後の大舞踏会>>>