遠い昔のモスクワ: 画家達が描いたロシアの首都

 モスクワは、教会、歴史的建造物、幅広い通りや隠れた中庭などの美しさに満ちているため、画家にとって常に創造性を刺激する源であり続けた。画家たちは、それぞれ独自の方法で自らの作品にその美を表現した。/ 『冬のルビャンスカヤ広場』、コンスタンティン・ユオン、1905年

 ヴァシーリー・スリコフは、作品を描く際に、その構成に細心の注意を払う画家だったので、同業者の間で「作曲家」というあだ名をつけられた。/ 『イヴァン大帝の鐘楼』、ヴァシーリー・スリコフ、1876年

 画家のコンスタンティン・ユオンは、風景画を自らの真の天職とみなした。彼の作品には、明らかにフランスの印象派の影響が見受けられるが、19世紀ロシア写実主義の独創性も備えている。/ 『赤の広場の聖枝祭(棕櫚の主日)のバザール』、コンスタンティン・ユオン、1916年
 ヴァシーリー・スリコフはクラスノヤルスクで生まれ、その先祖はドン・コサックに遡る。彼は、救世主ハリストス大聖堂のフレスコの作業が実施された1876年にモスクワに引っ越した。クラスノヤルスクに戻ることを夢見たが、この故郷を慕う気持ちのために、彼が美しいモスクワの光景を描くことを止めることはなかった。その1つの例が、冬のクレムリンの風景画 (1876年) である。

 コンスタンティン・マコフスキーは、モスクワの美術との縁が深い家庭で生まれ育った。駆け出し時当初の彼の絵画はロマン主義に傾倒していたが、数年後にはそのスタイルは写実主義へと移行していた。マコフスキーは画家のワークショップに参加し、モスクワ市民の日常生活を描き始めた。/ 『モスクワの見世物小屋』、コンスタンティン・マコフスキー
 アポリナリー・ヴァスネツォフは、中世モスクワの習作という注文を受けてこれを率いる他、考古学的な発掘にも携わった。彼は、ザモスクヴォレチエ地区をクレムリンとつなぐ衆聖人の橋を描いた。この橋は、モスクワの絶景のひとつに数えられていた。この橋がかけられたのは1693年のことで、1853年までの短い期間しか存在しなかった。/ 『クレムリンの絶景』。17世紀末の衆聖人の橋とクレムリン。アポリナリー・ヴァスネツォフ
 1909年、ボリス・クストーディエフは脊髄膿瘍の診断を受けた。その後15年にわたり、この画家は車椅子で生活し、横たわって描くことを余儀なくされた。この困難な時期こそ、彼が最も明るく、最も個性の強い、陽気な作品を描いた時期でもある。/ 『モスクワ赤の広場のスパスキエ門近くでの聖枝祭』、ボリス・クストーディエフ、1917年
 コンスタンティン・コローヴィンはモスクワで生まれ育っただけでなく、絵画もそこで学んだ。彼は世界各地を幅広く旅し、その行き先にはロシア北部も含まれた。海外に滞在中、彼は多くの有名な作品を制作した。だが、彼は必ず故郷の都市に帰り、モスクワの様々な場所を描いたり、ボリショイ劇場の舞台の装飾を手がけたりした。この絵画は、バルチュグ・ホテルからのクレムリンの眺めを描いたものだ。このホテルは、その窓からの眺めが素晴らしいことから、ソ連時代より画家や写真家に愛されてきた。観光客は自分の目でそのような光景を目にすることができる。/ 『モスクヴォレツキー橋』コンスタンティン・コローヴィン、1914年
 アリスタルフ・レントゥーロフは、パリに留学中にキュービスム (立体派) の支持者に出会った。これは彼の作品に反映された。建物が動的に描写された結果、モスクワは超自然的な花盛りの「驚異的な建築的景観」のように見える。/ 聖ワシリイ大聖堂、アリスタルフ・レントゥーロフ、1913年
 イヴァン・オルブライトはアメリカ人芸術家・画家・素描家だった。彼は世界中を幅広く旅行し、常に微細なディテールに執着した。彼は米国にあるアトリエの壁を黒に塗り、描画の邪魔にならないように必ず黒い服を着た。彼は、モスクワを描くにあたっていつもと同じ厳格な方法を用いた。『モスクワ』、イヴァン・オルブライト、1967年
 ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンは、戦闘場面を得意とする画家として名声を得た。しかし、キャリアの頂点に達したヴェレシチャーギンは、日記に次のように記した。「戦闘場面はもう二度と描かないぞ・・・もううんざりだ!俺は題材を、まるでそれが自分の身であるかのように受け止めてしまうのだ。死傷した兵士たち一人一人の災難を思うと涙が止まらなくなる」。 こう綴った彼は、自分の美術の対象を戦争画から風景画に転向させた。/ 『冬のモスクワ・クレムリン』、ヴァシーリ—・ヴェレシチャーギン
この絵画はモスクワの一連の作品を構成している一作品で、ユーリー・ピメノフが1930年代半ばに着手したものだ。自動車を運転する女性の姿は、当時はかなりめずらしい光景だった。この絵は、新しい時代の生活そして新しいモスクワの象徴として画家の同時代の人々が目にした様子をとらえている。/ 『新たなモスクワ』、ユーリー・ピメノフ、1937年
 「シュプレマティスム」の創始者で有名な作品、『黒の正方形』を描いた画家として知られるカジミール・マレーヴィチは、母親の死後、妻子を連れてモスクワに引っ越した。だが、この引っ越しは家族に幸せをもたらさなかった。妻はまもなく子どもを連れてモスクワを去り、後に夫婦は離婚することとなった。カジミール・マレーヴィチは『黒の正方形』、『赤の正方形』、『黒の円』や『赤クバーニ・コサック軍の突撃』などの作品により、後世によりよく知られている。それにもかかわらず、彼はあまり名の知れない古典的な作品も数多く描いた。/ 『モスクワ・ミャスニツキー地区の眺め』、カジミール・マレーヴィチ、1913年

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