モスクワのユネスコ世界遺産の女子修道院で火災発生

モスクワのノヴォデヴィチ女子修道院は1524年に建立された。6層構造で高さ73メートルを誇る鐘楼は、1683年から1685年にかけて建てられた。それから300年以上が経つ3月15日、鐘楼で火災が発生した。火災は、改修中で足場が設けられていた上部で発生した。鐘楼の改修工事は2014年に始まっていた。

モスクワのノヴォデヴィチ女子修道院は1524年に建立された。6層構造で高さ73メートルを誇る鐘楼は、1683年から1685年にかけて建てられた。それから300年以上が経つ3月15日、鐘楼で火災が発生した。火災は、改修中で足場が設けられていた上部で発生した。鐘楼の改修工事は2014年に始まっていた。

Vladimir Astapkovitch / RIA Novosti
火の手は100平方メートルの面積に広がり、消火作業には数時間を要した。モスクワのピョートル・ビリュコフ副市長によれば、鐘楼には甚大な被害は及ばず、貴重な品は何も保管されていなかった。
ノヴォデヴィチ女子修道院は、モスクワでも有数の美しい建築を誇る場所だ。3方面をモスクワ川に囲まれた、半島状の立地に所在している。この女子修道院は、居住区、事務棟、鐘楼や教会など、14の建物から構成されている。
この女子修道院はヴァシーリー3世により491年前に設立された。
長い間、貴族、とりわけロシア皇族の血を引く名門からの女性しか受け入れられていなかった。これには、ロマノフ朝初代ツァーリのミハイル・ロマノフの娘であるタティアナ皇女、ピョートル大帝の3人姉妹と最初の妃、そしてイヴァン雷帝の息子であるツァーリ、フョードル・イワノヴィッチの未亡人であるイリナ・ゴドゥノヴァなどが数えられる。その多くは、政治的または個人的な動機により修道女になることを余儀なくされた。
この女子修道院の名前の由来については3つの説がある。一説では、モンゴル人による侵攻後、ロシア人はキプチャク・ハン国に金銭の支払いだけでなく、若く美しい女性による貢納も求められたとするものだ。女子たちは野外に連れ出され、そこで最も美しい者たちが選ばれた。後にこの場所は「デヴィチェ」(ロシア語で若い女性を意味する「デーワ」/「デヴシカ」が語源)と称されるようになり、そこに建てられた女子修道院は「ノヴォデヴィチ」(新しい娘)と名付けられたというものである。2つ目の説によれば、この名称の由来は初代女子修道院長のエレーナ・デヴォチキナの苗字であるというものだ。3つ目の説は、スタロデヴィチ(古い娘)という別名を持つザハチェフスキー女子修道院と区別するためにこの名前が付けられたと説明している。
もともと、この女子修道院の壁と鐘楼は木造建てだった。しかし17世紀になると、ノヴォデヴィチ女子修道院は要塞であるクレムリンのように12の楼を含むレンガ建ての壁に囲まれていた。
残りの建造物のほとんどは、モスクワ・バロック様式に従って17世紀後半に建てられたものである。
1812年に、ナポレオンはこの女子修道院に火をつけようとした。モスクワから撤退中の彼の軍隊は、ノヴォデヴィチ女子修道院を焼き払おうとしたのである。しかし修道女たちはなんとか火を消すことに成功し、修道院を救った。どうしてもこのモスクワの名所を焼き払おうと決意を固めていたナポレオンは、近くの丘に軍を駐留させ、火の手が上がるのを目にするまで立ち去ることを拒んだ。炎が見えなければ修道院に戻り、再度放火しようとさえ決意していたのである。女子修道院の隣に住んでいた地元住民は、このことを知ると、ナポレオンを騙すために自分の家に放火し、これを見て満足したナポレオンはようやく撤退を再開した。
ノヴォデヴィチ女子修道院は、事実上そのままの状態で現存している。2004年に、建立480周年を迎えたノヴォデヴィチ女子修道院は、ユネスコ世界遺産に加えられた。