ユスポフ家:帝政ロシアで最も裕福な一家

帝政ロシア屈指の資産を誇り、多大な権力をものにした名家出身のフェリックス・ユスポフ公のアーカイブからのユニークな品々の展示会が、サンクトペテルブルクのファベルジェ博物館で始まった。

帝政ロシア屈指の資産を誇り、多大な権力をものにした名家出身のフェリックス・ユスポフ公のアーカイブからのユニークな品々の展示会が、サンクトペテルブルクのファベルジェ博物館で始まった。

Courtesy of Fabergé Museum
帝政ロシア屈指の資産を誇り、多大な権力をものにした名家出身のフェリックス・ユスポフ公のアーカイブからのユニークな品々の展示会が、サンクトペテルブルクのファベルジェ博物館で始まった。
ユスポフ家の系統はロマノフ家の系統に劣らないと考えられていたが、保有資産ではロマノフ家のそれを間違いなく上回っていた。同家が始まったのは1563年のことである。
スマロコフ=エルストン公爵だったフェリックス・ユスポフ公(1887~1967)はユスポフ家の中でも最も著名な人物だったが、彼の名声は、武勇による功績と政治的キャリアのいずれに由来するものでもなかった。
出生当時、彼はとても虚弱だった。彼の母親は娘を切望していたので、5歳になるまで彼は女の子らしい服を着せられていた。若きフェリックスは、ときどき窓の外に向かって次のように叫ぶことがあった。「ぼくってこんなに綺麗なんだよ!」
フェリックスは1909年から1910にかけてオックスフォードで学び、優雅なライフスタイルを満喫する中で、ディアギレフ、カルサヴィナやその他、季節興行するロシアのバレエ団の他のメンバーと遊び回った。
20世紀初頭には、彼はサンクトペテルブルクの上流階級の子息の中でも偶像的な存在となり、ドリアン・グレイに比べられることもよくあった。1914年、彼はツァーリのニコライ2世の姪だったイリーナ大公女と結婚した。
両家は、ロマノフ家が断絶する3年前に婚姻関係を築いた。1916年12月にフェリックスは、サンクトペテルブルクのモイカ通りにあるユスポフ家の邸宅でのグリゴリー・ラスプーチンの暗殺につながる計画を企てた。
共謀者たちは、それはロシア帝国を守るための行為であると信じていたが、実際にラスプーチンの暗殺は、革命とロマノフ朝の終焉を早めることにつながった。
ユスポフ一家は、1919年の十月革命が勃発した直後に、黒海に停泊していた英国海軍の巡洋艦マールバラに乗って亡命した。ジョージ5世の命により、この船は彼の叔母にあたるマリア・フョードロヴナ(ニコライ2世の母、アレクサンドル3世妃)の他、ユスポフ一家を含む他の皇室のメンバーも救出した。
亡命者となったユスポフ一家は生計を立てる方法を学ばなければならなかった。フェリックスは画家になり、回想録を執筆して出版した。妻のイリーナはパリで仕立屋とブティックを開いた。
彼らの亡命生活は何十年も続いた。帰国する機会を得られたのは、フランスで1942年に生まれた孫のクセニアだけである。1991年には、彼女はかつて一家が自宅としていたサンクトペテルブルクの邸宅に初めて足を踏み入れた。
このアーカイブ(フェリックス・ユスポフ公爵と妻、およびその他の皇帝家に属する所持品や写真のコレクション)は、ユスポフが住んでいたパリの邸宅で見つかったものである。そのコレクションは2014年11月、オークションハウスのオリヴィエ・クトー・ベガリーに預けられた。
これらの写真からは、1890~1930年の同家の生活の様子が見て取れる。居住空間、衣服、内装やスポーツなど、展示された写真からは第一波のロシア亡命者の生活ぶりを窺うことができる。
ファベルジェ博物館所有者のヴィクトル・ヴェクセリベルク氏は、自らが管理する財団Svyaz Vremenを通じて、同博物館のためにこのアーカイブを取得した。このコレクションは同博物館で3月29日まで展示されており、その後はロシア連邦の国立アーカイブに移管される。