ロシアのカラー写真のパイオニア達

カラー写真がロシアで普及したのは、ヨーロッパと同じように1860年代であった。当時のカメラマンやカメラマンと共に作業するアーティストは、印刷した白黒写真に直接油性絵の具や水彩絵の具で色付け、カラー写真を作った。 // アレクセイ・ニコラエヴィッチ・チュッチェフ、その妻のアンナ・ヨシフォヴナ、そして娘達のアンナ・アレクセーエヴナとマリア・アレクセーエヴナの肖像写真、1864年。
人々は、自分の姿をカラーで見ることを楽しみにし、絵画的な当時のカラー写真は人気が高かった。写真の色付けは、鶏卵紙に印刷されていた昔の写真の欠点をカバー出来るという長所もあった。 // 少女の肖像写真、1860年代。
鶏卵紙は時間が経つと黄ばむという欠点があった。黄ばみをごまかす為に、鶏卵紙には緑色やピンク色などの色が付けられた。色づけには水彩絵の具、グワッシュ(訳注:アラビアゴム・樹脂類で溶いた不透明水彩絵の具)や油性絵の具が使われており、後にはアニリン染料が使われる様になった。 // ウクライナの民族衣装を着た少女の肖像写真、1900年代。
19世紀終わり頃にはカラーは肖像だけではなく、建築物や景色や工業施設を撮った写真にも適用されるようになった。例えば、至聖三者聖セルギイ大修道院の写真スタジオ(ロシアでは修道院付属の写真スタジオは珍しくなかった)はロシア正教の教会を撮影し、数々のカラー写真を作った。 // キエフ、市立劇場、1900年代。
ロシアは19世紀後半から20世紀前半にかけてヨーロッパ化が進み、その影響は建築様式、内装、服装や生活全般に反映された。同時に、ロシア帝国の人々は民族としてのアイデンティティを探っていた。 // モスクワ、ルビャンカ、1910年代。
20世紀初頭には、ロシアの軍人のカラー写真が特に人気が高かった(第一次世界大戦まで、軍人は重要な社会階級であった) // 「兵役の記念に」、1910年代初頭。
1902年に、写真家の先駆者であるセルゲイ・プロクジン=ゴルスキーはカラー写真を撮る方法を発表した。その直後の1903年に、 彼は「手動カメラを使う等色性写真」という小冊子を出版した。プロクジン=ゴルスキーは独自の方法で感光性を与えたモノクロ感光版と、自作のカメラを使って撮影した。 // モスセリ工業ビルの壁の広告、1924年10月。
露出を最小限に抑えながら、青・緑・赤のフィルターを通して、3枚の写真を素早く連続撮影した。彼はこれらの3枚のネガを使って3枚の写真を現像した。// 赤軍兵士。「海外」誌に掲載された合成写真、1930年。
ピクトリアリズム(訳注:絵画的な写真のスタイル)は20世紀前半のロシアで最も流行した写真のスタイルである。ロシア人のピクトリアリズム派写真家達は国際展示会で金メダルや銀メダルを獲得した。 // パリの炎、1932年。
ピクトリアリズム写真の特徴は撮影方法と複雑な現像技術だけではなく、伝統的な被写体の選び方にもあった。// レギーナ・レンベルグの肖像写真、1935年
社会主義リアリズムの観点から見ると、ロマンチックな風景、廃れた建築物やヌードは過去の危ない名残であった。// 競争。ディナモ・スタジアム、1935年。
ピクトリアリズム派の写真家の中にはスターリンの強制収容所へ送られ、カメラマンとしての活動を禁止され、首都やその他の大都市に住む事を禁止された者もいた。 // 走高跳、1936年。
ソ連でカラー写真がようやく普及したのは第二次世界大戦終わり頃であった。ドイツから奪った機械を使って、1946年にソ連製カラーフィルムの製造が可能になった。その年から、イヴァン・シャギンを始めとする数名のカメラマンがニュースをカラー写真で伝える様になった。これらの写真は10月19日までロンドンの写真家ギャラリーで展示されていた。 // ユーリー・リパロフの肖像写真、1938年~1939年。