1920年代~1930年代のソ連のイメージを作ったアルカディー・シャイヘト

アルカディー・シャイヘト(1898年~1959年)は、ソ連有数の写真家およびフォトジャーナリストであった。彼の最初の写真は1923年に出版された。1924年に彼は「アガニョーク」誌のスタッフとなり、彼の写真はその時から表紙を飾る様になった。// 赤軍の入浴所。ニコラエフ、1932年

アルカディー・シャイヘト(1898年~1959年)は、ソ連有数の写真家およびフォトジャーナリストであった。彼の最初の写真は1923年に出版された。1924年に彼は「アガニョーク」誌のスタッフとなり、彼の写真はその時から表紙を飾る様になった。// 赤軍の入浴所。ニコラエフ、1932年

Arkadiy Shaikhet
ソ連の写真史において、シャイヘトの名は主に「芸術的ルポ(ルポルタージュ)」というジャンルで登場する。シャイヘトは1926年に設立されたソビエト・フォト誌の創設者の一人であった。1920年代から1930年代の工業化時代を写した彼の写真は、ソ連のイメージを作った。// トラクターと飛行機。1936年
アルカディー・シャイヘトは、1931年から1932年にかけて旗揚げされたロシア・プロレタリア写真家協会(ROPF)にも積極的に参加した。アレクサンドル・ロトチェンコは「10月組」(訳注:写真家の団体)のリーダーの一人となった。// モスクワのキエフ鉄道駅、1936年
「十月組」には様々な考え方の写真家達が集まったが、彼らは常に協力し、仕事を助け合い、自分達の意見を主張した。しかし1930年代に、写真を含む全ての芸術は「国の英雄を知ろう」というスローガンを掲げる為のツールとして使われる様になった。新しい形式の探求は終わった。// モスクワ川沿いの休日。1940年
芸術家にとって、個性と自己現実は二の次になった。重要なのはプロパガンダ、扇動と国の新しいイメージを作る事だった。それでも相変わらず、アルカディー・シャイヘトの作品からは才能と技術とプロ意識が伺えた。// 北部河川ターミナルの高架橋。モスクワ・ヴォルガ運河、1939年
フォトジャーナリストの写真をコントロールする為に、アーカイブ写真とネガは破棄された。// ヴォルガ川でチョウザメを捕る。グリエフスキー漁場、1940年7月~8月
著名な共産党員のルイコフ、ブハーリン(シャイヘトは頻繁に彼の写真を撮った)、ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデックやトゥハチェフスキーは政治の舞台から姿を消した。従って、彼らの写真も消えなければならなかった。// 馬車と車。ボリショイ劇場前のタクシーの列。モスクワ、1935年
シャイヘト家のアーカイブに残されたのは、ルナチャルスキー、キーロフ、クルプスカヤ、ゴーリキー、ジェルジンスキーやヤロスラフスキーなど、中立的な人物の写真だけであった。アルカディー・シャイヘトは自宅で写真の現像と印刷を行なっていた。// アホートヌィ・リャードの人通り。
家族全員が彼を手伝い、写真を洗い、ガラスに並べ、グロスで仕上げ、出来上がった写真を切った。息子のアナトリーが修正をした。// ゴーリキー通りを自転車で渡る少年。モスクワ、1935年
シャイヘトは仕事に没頭し、ソユーズ・フォトや全ソ農業博覧会の撮影の為に各地を飛び回った。シャイヘトは写真撮影の為にソ連の隅々まで旅をした。// 作曲家のドミトリー・ショスタコーヴィチ。1941年
1938年にアルカディー・シャイヘトはアガニョーク誌の編集部を解雇され、彼の写真がソビエト・フォト誌やソ連邦建設誌に掲載される事はなくなった。9月から彼は新しい雑誌で働き始めた。// 赤軍の入浴所。ニコラエフ、1932年
雑誌の為に数多くの写真を撮りながら、シャイヘトは全ソ展覧会にも参加した。1936年、彼はキエフで開催された第一回全ウクライナ写真芸術展覧会で第一級のディプロマを獲得した。// 赤の広場の軍事パレード。モスクワ、1940年5月1日。
1937年~1938年にかけて、彼は有名な「キエフ鉄道駅」を含むいくつかの作品を第一回全ソ写真芸術展覧会に出品し、第一級のディプロマを獲得した。// 信号。見張りをする漁師達。カスピ海、1936年
シャイヘトはVOKS(全ソ連対外文化交流協会)の活動の一環として、自らの写真を海外でも展示した。彼は、1935年の第31回パリ国際サロンや1936年の第9回アントワープ国際サロンで写真を展示し、1937年にはロンドンで行なわれた「現代のロシアの写真」展にも参加した。アルカディー・シャイヘトの写真は9月19日から10月19日まで、モスクワのマルチメディア・アート・ミュージアムで見ることが出来る。// 階段。トビリシ、1939年