カリーニングラード州 時代と宗教とイデオロギーが交わる場所

ポーランド国境付近にあるジェレズノドロジュヌィ町の小さな広場。 // ソ連崩壊後、カリーニングラード州はロシアから離れた飛び地である。南にはポーランド、北と東にはリトアニア、西にはバルト海がある。
ポーランド国境付近にあるジェレズノドロジュヌィ町のカップル。 // カリーニングラード州はモスクワから北西1277kmのところにあり、その700年の歴史の大半は東プロイセンの首都であった。1255年までカリーニングラードはトワングステと呼ばれており、1255年から1946年7月4日まではケーニヒスベルグと呼ばれていた。
ヤスノエ村にある古いドイツ風民家の暗い窓。 // 第二次世界大戦の終わり頃の1944年8月、ケーニヒスベルグは英国空軍による空襲により甚大な被害を被り、特に市の中心部はダメージが大きかった。多くの人々が犠牲となり、数多くの歴史的建築物が失われた。
ドアの上にドイツ語が書かれたままになっているビルから外を眺める老女と犬。ズナメンスク。 // 1945年、赤軍がドイツ軍を押し返し、東プロイセンはドイツから切り離された。200万人以上のプロイセン人は町や村から逃げた。ケーニヒスベルグはソ連軍に包囲された。1945年4月6日にケーニヒスベルクの戦いが始まり、4日後に守備隊は降伏した。
未だにドイツ語表記「帝国郵便局」の刻印が残るビルの隣にいるピオネール少女達。オゼルスク。 // 英国空軍による空襲と1945年のソ連軍による砲撃の結果、ケーニヒスベルクは8割も破壊された。市の外壁だけではなく、歴史も破壊された。何十年も経った今でも、1945年が市の始まりだと考える住人、逆に1945年が市の終わりだったと考える住人、その両方が存在する。
3人の士官学校生のシルエット、カリーニングラード。 // 第二次世界大戦終結後ポツダム会議にて、ドイツの東プロイセン州北部とその首都ケーニヒスベルクは、一時的にソ連の管轄下になった。後にこの地域は、カリーニングラード州として正式にソ連の領土になった。
放置された鉄道駅にある、ベンツのハンドルをつけた改造自転車。 // 戦後、ドイツ人住民の排除が決まり、1945年6月から1948年にかけて50万人のプロイセン人が東ドイツへと追放された。
ギターを持つ男性。ソヴィエツク(旧ティルシト)。 // 地域の産業を建て直す為に、ドイツ人専門家が若干名カリーニングラードに残ったものの、彼らにソ連市民権が与えられる事はなかった。やがて最後に残ったドイツ人は、ソ連の他の地域から来たソ連市民に入れ替えられた。
祖母と孫息子、グセフ(旧グムビネン)。 // ソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの死後、1946年7月4日にケーニヒスベルグはカリーニングラードと改称された。実際カリーニンはカリーニングラードと関係なかった。他のドイツの市も新しいソ連の名前に改称された。
廃墟となったドイツの教会、チェルニシェフスコエ。 // 戦後、要地であったカリーニングラード市は、バルト艦隊の拠点が置かれ、莫大な数のソ連市民が移り住み、大いに発展した。しかしカリーニングラードは軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りを規制された閉鎖都市だった為、隣国ポーランドからの「修好訪問」以外、外国人は訪れなかった。
プラヴディンスク町近くの廃墟となったドイツの教会。 // 残念ながら、当局はカリーニングラードのドイツの文化遺産に興味がなく、建築家、歴史学者や住民達の期待も空しく、多くの歴史的建築物は廃墟となり崩れていった。
休憩の一服、ズナメンスク。 // 州の村の多くでは、ドイツ時代から残る教会の廃墟を見る事ができる。
色あせた写真スタジオの広告、グセフ(旧グムビネン)。 // 戦争前に建てられた住宅の多くは、1945年以降カリーニングラードに移り住んだロシア人の住居となった。
家に残るドイツ語の文字、オゼルスク。 // 20世紀後半にはドイツ建築に対する考えが変わり始め、カリーニングラード市では、破壊された聖堂など、いくつかの建物の修復が始まった。しかしながら、州にあるドイツの文化遺産の大半は崩れたままである。
古い鉄道駅のビル、オゼルキ(旧ゲオルゲンフェルデ)。 // ソ連時代の面影が地域から消えつつある今、700年のドイツ文化や何世紀にもわたり交わってきたロシアとドイツの歴史など、この地が受け継いだ他のものの復活が見られる。