20世紀のシベリアの顔

これらの写真は、20世紀にシベリアのエニセイスクで撮られたものである。写真はクラスノヤルスク市の博物館のアーカイブに保管されている。
これらの写真は、20世紀にシベリアのエニセイスクで撮られたものである。写真はクラスノヤルスク市の博物館のアーカイブに保管されている。そこに残っている歴史的な写真からは、トナカイ飼育と教会建設など、地元の人々の生活が伺える。しかし最も興味深いのは、20世紀初頭の人々の顔だ。
1822年、ロシアのシベリア地域は西と東に分けられた。5つの地区を統一し、新たな行政区域エニセイスクが作られた。
この行政区域の「首都」となったクラスノヤルスクは、今ではシベリアの古い都市の中でも最大規模である。
行政区域の最大幅は中国からアジア最北端の地点まで2800 ベルスタ(ロシアの距離単位、およそ2,984 km)ある。
1911年にエニセイスク行政区域は放浪者の流刑の地に指定された。刑務所を出所した元囚人達はここに送り込まれ、住み着く様になった。同年、既に4万6700人の追放された人々が区域に住んでいた。
1920年、行政区域の人口はロシア人が84.0%、ウクライナ人が3.7%、ベラルーシ人が2.4%、ラトヴィア人が1.2%、タタール人が 1.2%、その他が6.5%だった。
都市部に生活する人は、人口の10パーセントに過ぎなかった。他の人々は村や集落で暮らすか、トナカイの群れの面倒を見ながら村から村へと放浪した。
エニセイスク行政区域は103年間存続した。1925年5月25日、シベリアにある全ての行政区域は廃止され、ノヴォシビルスクを州都としたシベリア州が出来た。
今日、クラスノヤルスク市(人口およそ97万5000人)は同名の州の州都である。ロシアでも最大規模の行政区であるクラスノヤルスク地方は、モンゴルに隣接するトゥヴァ共和国から、北極海にあるカラ海とラプテフ海まで達する。
エニセイ川南側の辺境の居留地として1628年に設立されたクラスノヤルスク市は、最初の一世紀には小さなコサックの支隊の駐留地に過ぎなかった。
クラスノヤルスクという名前は、地元のハカス語の地名を直訳(「赤い川岸」)したものである。
居留地が出来た最初の100年間、特にシベリアの気候が厳しい為、地元のコサックや農民は過酷な生活を送っていた。
しかしやがて、地域の豊富な天然資源のおかげで18世紀半ば頃には工業や手工業が盛んになった。特に南部の遊牧民の制圧やモスクワ道路の建設(1735-41)、そしてシベリアへの移住と物流を促す南のルートが出来、人口が増加した。1750年代には銅の製錬所や鉄工所が稼働していた。
西にあるオムスク同様、クラスノヤルスクは、1891年に建設が始まったシベリア鉄道により、田舎の駐屯地から交通や物流のセンターに変身した。1895年にはクラスノヤルスクは鉄道でヨーロッパと繋がり、その後、イルクーツクと極東にも繋がった。
革命後、1930年代の産業化政策により重工業の工業用地がクラスノヤルスクに建てられた。
更に、第二次世界大戦を機に、ソ連のヨーロッパに近い地域の工場がクラスノヤルスクに疎開し、市の工業化が進んだ。
その後、クラスノヤルスク市は水力発電とアルミニウム生産の中心地となった。ソ連時代の成長は、大規模な公共のビルの建設に反映された。
グラグ(強制収容所)のシステムの中心地であった事も、この頃のクラスノヤルスクの成長に貢献した。ソ連崩壊直後、クラスノヤルスクの人口と経済力は減少したが、近年は回復している。