画家デイネカ生誕115年:“優しい社会主義リアリズム

アレクサンドル・デイネカは、1899年5月20日クルスクに生まれ、モスクワの「国立高等美術工芸工房」(ブフテマス)で教育を受けた。デイネカの学生時代の絵には人物像が多い。彼は肉体的で表現豊かなものが好きだった。 // パナマ帽を被った自画像

アレクサンドル・デイネカは、1899年5月20日クルスクに生まれ、モスクワの「国立高等美術工芸工房」(ブフテマス)で教育を受けた。デイネカの学生時代の絵には人物像が多い。彼は肉体的で表現豊かなものが好きだった。 // パナマ帽を被った自画像

Alexander Deineka
アレクサンドル・デイネカは、1899年5月20日クルスクに生まれ、モスクワの「国立高等美術工芸工房」(ブフテマス)で教育を受けた。デイネカの学生時代の絵には人物像が多い。彼は肉体的で表現豊かなものが好きだった。
ヨーロッパの巨匠達はデイネカの画家としての形成に大きな影響を与えた。例えば、この彫刻はマティスの有名な絵を思い起こさせる。卒業後、彼は同級生と共にOSTという画家達の共同体を結成した。この団体は「若い画家に焦点を当てる」という目標を掲げ、ヨーロッパの最新トレンド(特に表現主義)とソ連の題材を融合した。// バラエティー・ショーのダンス 1923年
その後、雑誌とのコラボレーションが始まった。彼の風刺画の多くは、クラーク(訳注:20世紀前半のロシア帝国やソビエト連邦国内における自営農家の総称)、干渉主義者、商人、ブルジョワや革命前の時代を懐かしむ貴婦人など、プロレタリア階級の敵を揶揄した。同時に、これらの絵は人々に無神論を広め、宗教的先入観に対抗する為でもあった。デイネカの描く神父やヤブ医者は非常に的を得ていた。 // ヤブ医者 1925年
デイネカは反面教師のみならず、炭坑労働者、建設労働者、プロレタリア階級の女性やスポーツ選手など、模範となる人物も描いた。彼は特に大量生産、工業化、現代の都市生活、体育や国技など、ソ連の日常を讃える絵も描いた。 // 繊維工場労働者1927年
スナイパーの様に精密な画法が若い頃のデイネカの特徴である。彼は、絵画的美術よりグラフィックアートの時代がやってきたと信じた。デイネカは1928年に彼の最も有名な作品のひとつである「ペトログラードの攻防」を生み出した。後に彼は、ペトログラードの労働者達が白軍のユデーニチとの戦いに向かうのを描いたこの歴史的な革命の絵が、自身のお気に入りであると語った。// ペトログラードの攻防1928年
やがてデイネカはソ連で最も読まれていた雑誌全ての常連となった。彼のポスターは非常に目立つ。 // 義務教育を求む 1930年
彼の画家としての成長において、1932年は重要な時期の始まりである。彼の絵で最も有名な「母」はこの年に描かれた。この絵はソ連版マドンナであるとされた。この頃から彼の色彩は明るく優しくなり、女性を題材とする作品が増え、人物像も風景画も現実主義のみならず、ロマン主義を表す様になった。// 母1932年
1935年、デイネカはアメリカ、フランスとイタリアを訪れた。この旅の後、都市の風景画や人物像を描いた。 // パリジェンヌ1935年
1930年代には航空を題材とした絵を描いた。中でも、飛び去って行く飛行機を眺める3人の少年を描いた「未来のパイロット」(1937年)はデイネカの最もロマンチックな絵の一枚だ。
後にデイネカは壁画を始めた。1938年の冬、ソ連の人々の1日を描いた「ソ連の空の下の昼夜」というモザイクを手掛けた。このモザイクはモスクワのマヤコフスカヤ地下鉄駅に現在もある。ノヴォクズネツカヤ駅の天井もデイネカによるものだ。
学生時代の頃デイネカは、ソ連芸術において大きな役割を担った詩人のマヤコフスキーと知り合った。ある意味、デイネカは「絵画におけるマヤコフスキー」とも言える。デイネカもマヤコフスキーも、革命を信じ、プロレタリア階級を愛し、人間の肉体的健康を称賛した。デイネカの絵の中には、マヤコフスキーの有名な詩の名前がつけられたものがある。 // 「左翼行進曲」 1941年
大祖国戦争(第二次世界大戦)の始まりに、平和的な題材は美術からも生活からも消えた。デイネカはセヴァストポリへ向かった。戦争が始まると、馴染みのものは全て変わり、劇的で不吉な空気に包まれた。数多くの賞を授与され、長年後進の指導に勤しんだ後、1969年6月12日、アレクサンドル・デイネカはモスクワで死去し、ノヴォデヴィッチ墓地にて埋葬された。//「 セヴァストポリの攻防」1942年