セレブリャコーワの絵画

ロシア人芸術家ジナイーダ・セレブリャコーワの生誕130年(1884年12月12日)を記念して、モスクワのトレチャコフ美術館は、彼女のパリ時代の作品の展示会を開催する。 展示品の多くは、ロシアで初公開されるものだ。 彼女の子どもであるアレクサンドルとエカチェリーナによる絵画も同時に展示されている。 この展示会は3月14日まで開催されている。 \ 『自画像』、1921年

ロシア人芸術家ジナイーダ・セレブリャコーワの生誕130年(1884年12月12日)を記念して、モスクワのトレチャコフ美術館は、彼女のパリ時代の作品の展示会を開催する。 展示品の多くは、ロシアで初公開されるものだ。 彼女の子どもであるアレクサンドルとエカチェリーナによる絵画も同時に展示されている。 この展示会は3月14日まで開催されている。 \ 『自画像』、1921年

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パリの魅力とロシアへの思慕
ジナイーダ・セレブリャコーワは、芸術家の大世帯であるベノワ=ランセレ家の家系をついでいる。 フランス人の姓であるベノワ家は、宮廷の執事として18世紀にロシア帝国に移住したフランス人、ルイ・ジュール・ベノワにまでさかのぼる。 それ以来、一家全員がロシアに移り住んだ。 ジナイーダが生まれたのは、クルスク県のネスクチノエ(モスクワから約550キロ)だった。 彼女の父親エフゲニー・ランセレは彫刻家だった。一方、彼女の母親で、芸術家アレクサンドル・ベノワの妹にあたるエカテリーナは、グラフィックアーティストだった。 \ 『叔父のミハイル・ベノワの肖像画』、1910年
彼女が受けた美術教育は中途半端なものだったが、セルゲイ・ディアギレフとともに「芸術世界」協会を創設した叔父のアレクサンドル・ベノワと親しい関係にあった。セレブリャコーワが芸術家の道を歩む運命を辿ったのは、家に代々続く伝統によるものであった。\ 『美術的特性をもつ静物画』、1922年
少女時代や若い頃の彼女は、祖父が所有するネスクチノエ村で過ごした。 この村は現在、ウクライナのハルキウからそれほど遠くないところにある。 この時期、ジナイーダは畑や村の各所で仕事する小作農や少女たちを注意深く観察した。 このテーマは、彼女の全作品を通じてリフレインとなった。 \ 『台所で』 1923年
1886年、父の死後、一家は先祖代々住んできた村を離れ、サンクトペテルブルクに移り住んだ。ジナイーダは大学進学を専門とする女子高校を卒業し、美術学校に入学した。 1902年〜1903年のイタリア旅行では、彼女は多数の素描や習作を描いた。 \ 『春のベランダ』、1900年頃
1905年、彼女はいとこのボリス・セレブリャコフと結婚し、新婚夫婦はすぐにパリへと出発したが、そこでジナイーダはアカデミー・グラン・ショミエールに在籍し、数多くの自然の素描を描いた。 \ ボリス・セレブリャコフの肖像画、1905年
1年後、夫婦は故郷のネスクチノエに戻った。 ジナイーダは創作活動に専念し、スケッチ、肖像画や風景画を多く創作した。 初期の作品からでも、彼女特有の作風や興味関心の幅広さを窺うことができる。 ジナイーダ・セレブリャコーワにとって真の意味での最初の成功は、1910年、彼女が26歳の時にやってきた。 \ 『芸術家ローラ・ブラズの肖像画』、1910年
1910年にモスクワで開催された第7回ロシア人アーティスト展示会で、トレチャコフ美術館は、セレブリャコーワの自画像『化粧台で』とグワッシュ水彩画『秋の緑樹』を購入した。 評論家たちは、クリアで明るいトーン、巧みな腕前、比類のない自然美という点で、彼女の風景画の素晴らしさを絶賛した。 \ 『化粧台で』、1909年
彼女の創造性が頂点に達したのは、ロシアにいた1914年から1917年だった。 この時期、ジナイーダ・セレブリャコーワはロシアの農村生活、小作農の作業や自然を特別なテーマとする一連の絵画を創作した。 \ 『眠る小作農』、1917年
ロシアが内戦の只中にあった1917年、ジナイーダの夫は鉄道エンジニアとしてシベリアで働いていた。その間彼女はネスクチノエに残り、4人の子どもと一緒に生活していた。 ペトログラード(現サンクトペテルブルク)への引っ越しは不可能だった。 セレブリャコーワは、代わりにハルキウ(今日のウクライナ領)に移住した。 \ 『朝食で』、1914年
1917年には、彼女の一家の拠点であったネスクチノエが火事で焼失し、彼女のすべての作品が失われた。 しばらくして、同年中に、夫のボリス・セレッブリャコフが死去した。 このような状況によりロシアを離れることを余儀なくされた彼女は、夫への想いに心を縛られながらも、フランスに移り住んだ。 この時期、彼女は肖像画を4点描いているが、これらは現在トレチャコフ美術館とノヴォシビルスク国立美術館に収蔵されている。 \ 『ボリス・セレッブリャコフの肖像』、1913年
1920年代に、ジナイーダ・セレブリャコーワは4人の子どもとともにサンクトペテルブルクに戻った。 娘のタチアナはバレエを習い始めた。 ジナイーダは娘と一緒にマリインスキー劇場によく通い、楽屋にも顔を出した。 この3年間に彼女がバレリーナたちと行った創造的な対話は、バレエの肖像画やその他の驚嘆すべき一連の作品に反映されている。 \ 『バレエの楽屋で(偉大なバレリーナたち)』、1922
革命勃発後の数年間、ソビエト連邦は展示会が盛んに開かれていた。 1924年、セレブリャコーワは、米国で開催される大掛かりなロシア美術の展示会に参加した。 彼女の全作品が完売したので、彼女はそこで得られた収入を利用して、コミッションを獲得するためにパリで展示会を組織することにした。 \ 『チュイルリー庭園の彫刻』、1941年
だが、パリで過ごした年月は、彼女に喜びも創造的な満足感ももたらさなかった。 彼女は故国に帰りたいと思い焦がれていたが、その切望を自身の絵画で表現しようとした。 \ 『ジュネーブ近くのスイスの風景』、1951年
セレブリャコーワにとって初めての個展が開催されたのは、ようやく1927年になってのことだった。 彼女は収益をロシアにいる母と子供たちに送った。 1965年には、彼女の作品の展示会がモスクワで開催されたが、それはこのアーティストがパリで亡くなった2年後のことだった。 \ 自画像、年代不詳