ロシア版ハリウッド「モスフィルム」が90周年

ヨーロッパ最大の映画スタジオであるモスフィルムは1924年1月24日に創立された。今年は90周年を迎える。モスフィルムは、モスクワ南西部にある映画村だ。モスクワのジトナヤ通りにあった映画スタジオには、社会主義下の監督達の野心的な作品を作る為のスペースが不足し、 ポトリハ村に撮影所が設けられた。

ヨーロッパ最大の映画スタジオであるモスフィルムは1924年1月24日に創立された。今年は90周年を迎える。モスフィルムは、モスクワ南西部にある映画村だ。モスクワのジトナヤ通りにあった映画スタジオには、社会主義下の監督達の野心的な作品を作る為のスペースが不足し、 ポトリハ村に撮影所が設けられた。

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ヨーロッパ最大の映画スタジオであるモスフィルムは1924年1月24日に創立された。今年は90周年を迎える。
ここで、セルゲイ・エイゼンシュテイン(写真:編集室にて)、フセヴォロド・プドフキン、アレクサンドル・ドフジェンコ、ミハイ ル・カラトゾフやアンドレイ・タルコフスキーの代表作が撮影された。このスタジオにはロシアとソ連映画の歴史がある。
ソ連初のミュージカル、グリゴリー・アレクサンドロフの「陽気な連中」(1934年)もここで撮影された(写真:撮影風景)。この作品は、トーキー(訳注:映像と音声が同期した映画)の技術を学ぶ為に、エイゼンシュテインらがヨーロッパとアメリカに行った結果、出来たものであり、 ハリウッドの影響を強く受けている。「音楽隊の喧嘩」のエピソードはその後映画製作の教科書に載った。
戦時中のソ連映画は国民の愛国心を煽り、政治的に重要なツールとなった。ドイツ軍がモスクワに近づくと、全ての映画製作所はアルマアタに疎開し、撮影は続いた。写真に映っているのはアレクサンドル・ストルペル監督、コンスタンチン・シモノフ脚本の「私を待て」(1943年)に出 演するヴァレンティン・セロフとエレーナ・チャプキナ。
ソ連映画史で最も困難な時期は1950年代前半だったかもしれない。共産党は様々な芸術を管理する規則を次々に作った。ソ連映画が復活したのは、1953年にスターリンが死去してから。ミハイル・カラトゾフの「戦争と貞操」が第11回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得するなど国際的な成功もあった。
1960年代は、新たな希望の時期であり、ソ連映画にとってだけではなく、国全体にとって分岐点だった。工科大学の学生 達は反抗的な詩人に耳を傾け、映画界では新しい名前が数多く登場し、モスフィルムは毎年10以上の一流映画を制作した。アンドレイ・タルコフスキーの最初の作品もこの時期に登場した。(写真:「僕の村は戦場だった」)
1970年代、モスフィルムはヨーロッパ最大の映画撮影スタジオになった。これまでにモスフィルムはおよそ1200本の映画をリ リースし、国際映画祭で166の賞を獲得していた。製作現場では、中世の城や宇宙船を造ったり、古い硬貨を鋳造したり、ナポレオン時代のキャミソールを作ったり、何でも可能だった。
1980年代の映画には馴染みのスターばかりが登場し、新しい人材はほとんど現れなかった。まだ誰もソ連崩壊を予期していな かったが、その前兆はあった。「テヘラン43」の製作現場にいるウラジーミル・ナウモフとアラン・ドロン(1980年)。
ソ連が崩壊すると、ソ連映画業界が崩壊しただけではなく、配給システムも崩れ、国産映画はアメリカの映画と競争する事になった。 それまで行列ができる程の人気があったロシア人俳優の作品はあまり上演されなくなった。プーシキンの「百姓令嬢」を元にした「貴族の令嬢は農家の娘」 (1995年)に出演するエレーナ・コリコヴァ。
21世紀初頭までにモスフィルムは経済性を高め、近代化に投資した資金を回収する事に成功した。しかし、これは以前と同じモスフィルムではなかった。今日、モスフィルムは1チャンネルの為にドラマや派手なショーを製作する。子供向け映画はなくなり、ミュージカルや名作の映画化もなくなった。かつての監督達は、様々な小さい映画製作所へと散った。「ホワイトタイガー」の撮影現場にいるモスフィルム社長、カレン・シャフナザーロフ(2012年)。

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