マリャービンが描いたロシアの心と女性

フィリップ・マリャービンは、カザンカ村(ウラル山脈南麓)の子沢山の小作農の家に生まれた。16歳の彼は、アトス山にあるロシア正教のアギウ・パン テレイモン修道院へと旅した。イコン画家になるための訓練を積む中で、彼は、豊かな色彩と大胆な筆の動きを鮮やかに組み合わせた独自のスタイルを確立することに没頭した。/ファランドール、1926年
1892年に、修道院でイコン画家になることを諦めたマリャービンは、志願してロシア帝国美術アカデミーの美術科に入学した。フィリップ・マリャービンは、現代主義的スタイルの要素を内包した『花盛りのロシアの小作農の女たち』という一連の絵画で有名になった。ストッキングを編む小作農の女の子、1895年。
マリャービンは、風俗画や歴史画の巨匠である、ロシア人画家イリヤ・レーピンの弟子になった。1898年の作品『老女』などの小 作農の肖像に代表されるマリャービンの初期の作品は、すでに彼に名声をもたらしていた。
若き芸術院会員の絵画は、パーヴェル・トレチャコフによって自身のギャラリーのために購入されたほか、新聞にも取り上げられた。まもなくこのアーティストは、注文により大がかりな肖像画を描くようになった。/ アーティスト、アンナ・オストロウモワの肖像画。
マリャービンの作品『笑い』(1899年)は旋風を引き起こした。このすばらしく鮮やかな色と太く力強い筆遣いは関心を集め、熱 い論争の種となった。この作品は、1900年にパリで開催された国際博覧会で金賞を受賞した。
20世紀の最初の10年が、マリャービンの才能のピークだった。次のような彼の傑作が描かれたのはこの頃のことだった。『黄色い 服の女』と『女の子』(いずれも1903年)、『2人の女の子』(1910年)などだ。/ 『女の子』
明るくカラフルな服を着た小作農の女性たちが、マリャービンの作品の主な題材だった。彼は、ロシアにおける民俗的なテーマの伝統 を独自の方法で捉え、女性の描写における力強くのびのびとした表現の新時代を強調し、同時に威厳を与えた。/ 『2人の女の子』(1910年)
伝統的な背景、大きく描かれた人物、奥行きのあまりない空間、そして異様にめざましい色彩が特徴のマリャービンの大胆な絵画は、わざとそれを際立たせるかのように装飾的だ。/ 小作農の女、1904年
しかし、20世紀初頭になると、彼の作品を疑問視する評価がしばしば出てくるようになった。1906年世界芸術協会の展覧 会において展示された『竜巻』を、彼の同輩たちは、その当時の革命的感情に直接のつながりを持つものであると受け止めた。
赤の色が、古代イコンの画家だった時以来、初めてマリャービンの絵画に用いられるようになったのは、注目に値する。/ 赤いドレスを着た小作農の女性、1905年
「芸術院会員」の地位を授与されたマリャービンは、パリに3年間滞在し、1911年1月には「家族の肖像」という作品を展示し たが、これはすべての評論家によって失敗作とみなされた。それ以来、彼はほとんど自分の作品を展示しなくなった。
それでも、彼は精力的に描き続けた。彼は注文による肖像画を描き、イーゼル画の分野で大いに活躍した。きわめて表現豊かで正確 な線の描写能力を有するデッサン画家としての彼の資質は、ここに発揮された。/ 富裕な小作農の肖像。
1922年に、マリャービンはパリに移住し、そこのシャルペンティエ画廊で1924年に開かれた彼の作品の展示会は、たいへん な成功を収めた。ロシアの題材を扱った作品のほかにも、彼は風景画や肖像画を描いた。彼の筆になる最も有名な肖像画は、バレリーナのアレクサンドラ・バラショーワ(1924年)だ。
第二次世界大戦により、彼はブリュッセルへの逃亡を余儀なくされた。そこで占領軍によって逮捕され、スパイ容疑で告発された が、後に釈放された。マリャービンはその後まもなく死去した。/ あるアーティストによる自画像。