芸術プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフは、忘れがたい上演の夜や異端的な作品でいっぱいの、話題に尽きない業績を残したが、その中でもある晩は、 100年後の今でも特別なものとして記憶されている。イーゴリ・ストラヴィンスキーの音楽、ヴァーツラフ・ニジンスキーの振付による『春の祭典』は、 1913年のシャンゼリゼ劇場の初演で、タキシードに身を包んだ観客による稀な大騒動を引き起こした。/ パブロ・ピカソ、『パラード』の中国人手品師の衣装デザイン、1917年
Victoria and Albert Museum民俗音楽のメロディーの分析からヒントを得た不協和音と、小作農のダンスに基づいたスタッカート調の落ち着かないステップは、普段はおとなしく聴き入る観客にショックを与えた。後には、多くの人がこの先駆的な作品を賞賛するようになったが、一部の評論家は、『春の祭典』を野蛮なスキャンダル呼ばわりした。 / パブロ・ピカソ『パラード』の中国人手品師の衣装デザイン
Victoria and Albert Museumそれでも、当時のオペラ界とバレエ界において一種のクエンティン・タランティーノのような存在だったディアギレフが、センセーショナルな初演がスキャンダ ルに発展することをどれほど予期あるいは期待していたのか、今では知るべくもない。しかし、観客がこのような作品をかつて目にしたことがなかったことは確かだ。ディアギレフは、新たなロシア芸術運動における自らの中心的地位を、ロシアの国外で築き上げた。/ レオン・バクスト、『ナルシソス』のニンフの衣装、1911年
Victoria and Albert Museum芸術をエキゾチック、外国風で豪華なものとして探索する目的で始まった運動は、ディアギレフやその他の協力者の指導のもと、斬新なアバンギャルド運動へと 変貌していった。これにはニジンスキー、ストラビンスキー、ドビュッシー、サティ、ピカソ、フォーキン、マシーンだけでなく、ニジンスカやアンナ・パヴロ ワなどといったダンサーたちも数えることができる。この運動は、その後発展した芸術に影響を及ぼす以前の、新鮮ながら落ち着かないロシアを表していた。/ レオン・バクスト、『青い神』の小神の衣装、1912年
Victoria and Albert Museumディアギレフの輝かしいキャリア、そして、自分が生きた時代の美学を彼が推進した方法は、鮮明に活気づけさせるような詳細さで、国立芸術ギャラリー(NGA)の展示「ディアギレフとバレエ・リュス 1909〜1929年」で再現されている。/レオン・バクスト『シェヘラザード』の宦官の衣装、1922年
Houghton Library, Harvard Theatre Collection, Harvard Universityキュビスムは既に美術界で始まっていたが、NGA副キュレーターのセーラ・ケンネル氏は、「『春の祭典』は現代主義の美学を公に具現した最初の作品でした」と説明する。「この作品では、過去の伝統からの表向きの決裂が突然生じるのです」/レオン・バクスト、『シェヘラザード』の主宦官の衣装 (マリー・ミュール制作)1910年
National Gallery of Australia最近、NGAの展示が10月6日まで延長されることになった。「展示期間が短すぎるとはずっと感じていました」と国立芸術ギャラリーの副キュレーターの セーラ・ケネル氏は言う。「[芸術作品の]貸与元の組織すべてが、1ヶ月の延長に同意してくれました。それは展示にお墨付きをもらえたという、すてきな印です」/ミハイル・ラリオーノフ、『道化師の物語』の道化師の妻の衣装、1921年
Victoria and Albert Museumそれ以来、これほど影響力の強かったバレエ団はなかった。また、このような革命派アーティストの集合体に、これほどの刺激を与えた芸術プロデューサーは、 おそらく彼をおいては存在しないであろう。ディアギレフは、影響力のある後援者から、ただ前衛的なショーをプロデュースするためだけでなく、それらを ニューヨークのような大都会から、アラバマ州バーミンガムのように、バレエ作品『シェヘラザード』 が卑猥とみなされるような辺鄙な町に至るまでの都市を対象にツアーするための資金を確保した。/ ジョルジョ・デ・キリコ。『舞踏会』の空気の精の衣装、1929年
(ARS) New York/ADAGP, Paris/ Victoria and Albert Museumしかし、『シェヘラザード』の、振付とは言えどもあけらさまなエロティシズムと、ゆるくて透けて見える衣装は、やはり大きなセンセーションを引き起こした。女性はターバン、羽飾りやハーレムパンツを着け始め、テーマパーティを催した。バレエ・リュスのロシア人スターたちは、一種のオリエンタリズムの雰囲気を醸しだし、それを初期の作品に利用した。彼らは西洋に、ウズベキスタンやウクライナといった場所からの織物や民俗文化を紹介した。このバレエ団もいろ いろな意味で、振付師、舞台装置家から衣装アーティストに至るまで、祖国が激動のただ中にあった時代に、世界における新たなロシアのアイデンティティを探し求めていたのだ。/ ニコライ・レーリヒ、『イーゴリ公』のポロヴェッツ人戦士の衣装 1909年頃
Victoria and Albert Museum1917年上演のバレエ『パラード』を鑑賞すると、パブロ・ピカソの衣装、きめ細かい振付と、ストラビンスキーの音楽に感銘を受けずにはいられない。この バレエは、今の時代であっても、爽やかに身が引き締まるようで現代的だ。/ ジャン・コクトー、『バラの精』のヴァーツラフ・ニジンスキー、パリ、シャンゼリゼ劇場での初演のためのポスター、1913年
Victoria and Albert Museumセーラ・ケネル氏の次の言葉は、間違いなく的を得ている。「バレエ・リュスのめざましい功績は、開放的な協調の精神を育んだことでした。こうして20年にわたり、このバレエ団は振付師、ダンサー、アーティストと音楽家の間の刺激的な対話から生まれる、印象的で革新的な公演を製作しました」/レオン・バクスト、 『シェヘラザード』のオリジナル舞台装置の変型、1910年以降
Collection of the McNay Art Museumディアギレフは、いつも自身のバレエ・リュスを凱旋ツアーのためにロシアに連れ帰る予定でいたが、毎回その試みは不運に見舞われた。そして、やがて祖国が 大混乱に陥ってしまった。例えばある時は、公演が予定されていたサンクトペテルブルクの劇場が、火事で全焼してしまった。ロシア革命勃発後は、めでたく帰還する 可能性はないに等しかった。彼のバレエ団の起源はロシア帝室バレエにあるが、その活動拠点となったのはヨーロッパだった。/ ナターリヤ・ゴンチャローワ、『サドコ』の紅斑魚の衣装、1916年
Artists Rights Society (ARS) New York/ADAGPNGAでのこの展示が最も色彩豊かに強調しているのは、ディアギレフとバレエ・リュスによる現代主義への多大な貢献だ。レジェの絵画『舞台から下るバ レエ・リュス』を見ていると、ダンサーの探究がキュビズムの運動に多大な影響を与えたことも、はっきりと見て取れる。同バレエ団によるアイデンティティの 探求は、より普遍的なものの発見につながった。それは、あらゆる芸術が共有し始めつつあった現代主義という言語に他ならない。/レオン・バクスト。『ナルシソス』のボイオティアの羊飼いの衣装、1911年
Victoria and Albert Museum展示品とカタログは、セルゲイ・ディアギレフという人物にも十分に脚光を当てている。彼は、後に財産を喪失することになるペルミの貴族の家庭に生まれた。しかし、幼少期に彼の継母は、彼のために北ウラル山脈地帯に文化的環境を創り出した。「ディアギレフ一家は、自分たちが未開の東部に暮らしているのではなく、ヨーロッパのある地方に暮らしているのだと自分たちに言い聞かせるために、可能なあらゆる手段を尽くしました」とスイェン・シャイエンはカタログに記している。ディアギレフはすべての芸術分野での訓練を積んでいたが、特に音楽の造詣が深かった。/ディアギレフとジョン・ブラウン、ニューヨーク、1916年
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