「愛の言葉」を目覚めさせたロシア人

パブロ・ピカソ、オルガ・コクローヴァ // オルガはロシア・ウクライナ系のダンサーで、セルゲイ・ディアギレフが創設したバレエ・リュスの団員だった。オルガは1918年7月12日、パリにあるロシア正教の大聖堂でピカソと結婚した。コクローヴァは、1920年代パリの富裕層の生活の一部を成していた上流社会、晩餐会や、あらゆる優雅な社交的行事に、ピカソを紹介した。しかし、社交的たしなみに対する彼女の厳格さは、ピカソの自由奔放な性格に合わず、2人の生活は常に緊迫関係にあった。
セルゲイ・エセーニン、イサドラ・ダンカン // イサドラ・ダンカンはアメリカ人のダンサーだった。カリフォルニア生まれの彼女は、22歳の時から50歳で死を迎えるまでを、西ヨーロッパとソビエト連邦で過ごした。ソビエトに対して支持的だった彼女はアメリカ合衆国から追放されたが、その後、彼女はヨーロッパ中で高い評価を獲得した。セルゲイ・エセーニンは最も人気と知名度が高いロシア人詩人の一人だった。セルゲイはイサドラよりも18年若かったが、1922年、イサドラとセルゲイは互いに愛する関係になった。エセーニンは彼女のアメリカとヨーロッパのツアーに付随した。その翌年、彼はイサドラと別れてモスクワに戻った。彼は1925年、30歳のときに自殺した。
イワン・ツルゲーネフとポーリーヌ・ヴィアルド // ポーリーヌ・ヴィアルドは丸まった肩と男らしい容貌の顔つきが特徴で、とても美貌とはいえなかった。しかし彼女が歌い始めると、何もかもが美しく変容するのだった。1843年にロシアで『セビリアの理髪師』の上演を耳にしたイワン・ツルゲーネフが、魔法のように彼女の虜になったのは、もしかするとそれが理由なのかもしれない。イワンは彼女の夫でもなかったが、生涯彼女を崇拝し続けた。1845年、彼はポーリーヌを追ってロシアを去り、結果的にヴィアルド家に身を置き、彼女の4人の子どもを我が子のようにかわいがった。それに対し、彼女は彼の作品を批評し、自身のコネや社交能力を駆使することで、公共の場では常に彼に脚光が浴びるよう支援した。
サルバドール・ダリとガラ // ガラはサルバドール・ダリの妻で、彼にとってのインスピレーションの源だった。1929年8月、すでに人気を博していたダリは、生涯を通じて重要なミューズとしてインスピレーションを与え、将来の妻となるガラ(本名はエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ)に出会った。彼よりも10年年長の彼女はカザン出身のロシア人移民で、当時シュルレアストの詩人ポール・エリュアールの妻だった。ロシア人知識層の家に生まれたガラは、ダリと共に築いていた自由奔放なライフスタイルを謳歌した。ガラは1982年6月10日に87歳で死去した。ガラの死後、ダリは落胆して生きる気力を失った。
ヴラジーミル・ヴィソツキーとマリナ・ヴラディ // マリナ・ヴラディは1963年のカンヌ国際映画祭において『女王蜂』という作品で女優賞を受賞されたフランス人女優である。詩人、シンガーソングライター、俳優で、概してソビエト文化のヒーローと評されるヴラジーミル・ヴィソツキーは、マリナと1969年に結婚した。マリナはモスクワで夫とより長く時間を過ごせるよう、フランスでの自身のキャリアを犠牲にしたが、一方のウラジーミルは、妻のもとに滞在するために海外に渡航する許可を得るため、友人に奔走してもらうなど、2人は10年間にわたって長距離の夫婦関係を維持した。結局マリナがフランス共産党に入党したことが実際のきっかけとなり、ソ連への入国無制限のビザを取得した。これにより、ウラジーミルも、政府による迫害の危険をある程度は免れることができた。
マリウス・プティパとマリア・スロフシュチコーワ // マリア・スロフシュチコーワはサンクトペテルブルの帝室バレエ学校でバレエを学び、1854年に卒業した。同校を卒業後、彼女は帝室ボリショイ・カーメンヌイ劇場のコール・ド・バレエに入団し、1854年には当時サンクトペテルブルクの帝室劇場でプリンシパル・ダンサーを務めていたマリウス・プティパと結婚した。フランス・ロシア系のバレエダンサー、監督、振付師として活躍したプティパは、バレエ史上最も影響を与えたバレエマスターおよび振付師とみなされている。
ユーリ・リュビーモフとカタリーナ・クンツ // ユーリ・リュビーモフはソビエトとロシアの舞台俳優で、彼自身が創設し、国際的に著名なタガンカ劇場の監督を務めた。彼は、ロシア演劇界の代表的人物の一人である。ハンガリーのツアー中、彼は当地のジャーナリスト、カタリーナ・クンツと知り合った。それ以来、2人はずっと一緒だ。2011年に発生したスキャンダル後に辞任するまでタガンカ劇場の支配人を務めたカタリーナと、同劇場に所属する俳優の間柄は困難で複雑であったが、彼らとリュビーモフの関係は未だに変化がない。
トニーノ・グエッラとエレノーラ・ヤブロチュキーナ // トニーノはイタリアの強制収容所の生存経験をもつ詩人、作家、脚本家で、世界中の屈指の映画監督と協力した。彼はミケランジェロ・アントニオーニと『赤い砂漠』、『欲望』、『砂丘』と『ある女の存在証明』で、フェデリコ・フェリーニとは『フェリーニのアマルコルド』で共に仕事をしている。彼にとっての主なミューズは、ロシア人のエレノーラ・ヤブロチュキーナだ。当初、彼はロシア語を話せず、彼女はイタリア語を話せなかった。しかし、彼らは共通の言葉を話すことにすぐに慣れた。トニーノは彼女のおかげで、自分も半分ロシア人になったことに気づいた。

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