ソ連時代のスケートボーディングの起源は

70年代末にバルト沿岸に手製ボード出現
ソ連時代のスケートボーディングの起源は1970年代後半まで遡る。西側諸国の若者たちが興じる風変わりな趣味にメディアが手短に触れることはよくあったが、スケートボードはこの国に少数しか輸入されなかった。
しかし、流行は瞬く間に広がり、雑誌は「アスファルト・サーファー」と呼ばれる自家製ボードの作り方をイラスト付きで掲載するほどだった。
新品のボードを購入する余裕がなかった人たちがこのストリート・カルチャーを経験する機会を得るには、自作のボードを利用するしかなかった。
スケードボードの熱狂には、最初にバルト海沿岸の国々で火がついた。エストニアでは、1979年にはスケーターたちが自家製ボードを作り始めていた。
1980年代中頃からソ連崩壊までの間、ローラーつきのボードがロシアの様々な都市で製造された。
1980年代の後半には、ソビエトの若者たちは、アメリカのスケーターを主題とする2本の外国映画『ローリング・キッズ』と『スラッシュ!!』を観ることができた。これら2本の映画は、多大な影響を与えた。
こうした動きは次第に人気を高め、スケートボードは一人前のスポーツとしての地位を確立した。スケートボード・クラブがモスクワにでき、サラトフ、ヴィリニュス、レニングラードやその他の都市では主要な大会が開催された。
モスクワでスケーターが集う場所として最も人気の場所には、全ロシア博覧センター(VDNKh)、アレクサンドロフスキー公園、オクチャブリスカヤ通りのレーニン像、そして後にはマルクス像、ルジニキ・スタジアムや未開発だったころのポクロンナヤの丘勝利記念公園などがある。
サラトフでは最大規模の大会が開催された。このためにソ連中からスケーターがこの都市に集結した。トーナメントは通常3日間を通して行われ、そのスケジュールは過密なものだった。
スラロームが流行の最先端であると当時のスケーターたちが考えていたということは興味深い。このスラロームが、最も壮大な見せ物となるメインの競技スタイルだった。
ストリートスタイルやフリースタイルもまた、ソ連のスケーターの間ではポピュラーだった。
服装に関してはストリートスタイルが流行だったが、多くのスケーターたちは単に最もスケートしやすい服を着ていた。それは大型のTシャツ、だぶだぶのズボ ン、スラックスなどというものだったが、そのほとんどは古着だった。1992年以前は、特製のスケートボード用シューズというものさえもが存在しなかった 。

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