モスクワ市による撤去を前に
ヴィタリー・ミハイリュク
ジャーナリスト
 2月21日、モスクワのセルゲイ・ソビャニン市長は「フルシチョフカ」と呼ばれる、大衆住宅撤去に関する大規模なプログラムの実行を発表した。
 4月20日にはロシア連邦下院議会の第一読会でこの法案が検討されたが、撤去や立ち退きの明確な手順についてはまだ明らかにされていない。
 ロシアNOWは、今後撤去される予定の住宅に暮らす人々に話を聞いた。
 低予算住宅「フルシチョフカ」の初期のモデルがモスクワに現れたのは1940年代終盤のことだ。しかしその大規模な建設が始まったのは1950年代後半、ニキータ・フルシチョフの時代だったことから、これらの住宅はその名をとって「フルシチョフカ」と呼ばれるようになった。

 これは最小限の費用かつ記録的なスピードで作られる大衆住宅である。建物はそのほとんどが5階建てだったが、これは建設基準でエレベーターを設置する必要のない階数の上限であった。そこで3階または4階建てのフルシチョフカが建てられることはほとんどなかった。エレベーターがなく、総面積が小さく、天井が低く、防音性が悪いーー、人々はフルシチョフカのこうした条件を受け入れるしかなかった。

 新聞「コメルサント」紙は、2月21日にソビャニン市長がウラジーミル・プーチン大統領との会談の席で、フルシチョフカの撤去計画について明らかにしたと伝えた。「コメルサント」によればこの計画ではおよそ8000棟の住宅、面積にして2500万平方キロメートルが撤去の対象となっており、これはモスクワの住宅基金全体の10分の1に相当する。計画が実行されれば1600万人が今住んでいる住宅からの立ち退くことになる。モスクワ市はこれらの住民には同じ地区または隣接地区で同等の広さの住宅を保障するとしている。

 撤去される住宅の完全なリストはまだまとめられていない。中間リストが作成されてから、投票を行うとしている。住人たちは撤去に「賛成」か「反対」か票を投じ、その多数派の意見に基づいてそれぞれの住宅の運命が決まる。

 解体の賛否をめぐってはすでに、自分の住宅を何としても守りたいという反対派と、老朽化した住宅から今すぐにでも喜んで出で行くという賛成派に二分している。
「これはわたしの家。守らねばならない」
 シヴェルニカ通り12/2k1番地の住宅は緑あふれる閑静なチェリョームシキ地区にある。中心地から20分の場所にある。チェリョームシキ地区はフルシチョフカの誕生の地とされている。1950年代半ば、まさにここで5階建て住宅の大規模建設が始まったのである。1957年にグリマウ通り16番地に建てられた最初の住宅はまだ4階建てだった。まもなく設計図には5階が付け足され、それは地区全体、その後、ソ連中に広まっていった。
 シヴェルニカ通り12/2k1番地の住宅は1957年に建設されたもので、公式的にはフルシチョフカと呼べるものではあるが、当時のフルシチョフカの典型的なタイプとは異なり、天井の高さも3メートルあり、部屋の総面積も広い。図面にはエレベーターが書き込まれており、エレベーターホールも作られたが、まもなくしてこのアイデアは頓挫した。

 撤去の知らせを聞いた住人たちは不安に顔を曇らせた。快適な地区にある広いアパートから別の場所に移りたいとは思う人はそういない。

アナスタシヤ・メドニコワさん(2階住人)
「わたしはこの住宅を守ることができると思っています。この住宅はとてもいい家です」
「わたしはこの住宅を守ることができると思っています。この住宅はとてもいい家です」
 33歳です。この家には20年住んでいます。もともとここは母の家だったのですが、今は夫と2人で暮らしています。わたしにとってこの家が大切なのは、天井の高さが3メートルあることや家が広いということだけでなく、ここにいっぱい思い出が詰まっているからです。この家で学校を卒業し、大学を出て、結婚しました。母は亡くなるときまでこの家に住んでいました。

 この家の大きなメリットの一つは防音性です。わたしも夫も音楽好きで、夫は作曲をし、ギターを演奏し、夫婦で楽器を弾くこともあります。夜、演奏をすることもありますが、防音性が優れているため、隣人とトラブルになったことは一度もありません。家で友人を集めてコンサートを開き、30人くらいの人が来てくれることもあります。

 このアパートには実にさまざまな国の人が住んでいます。わたしは外国人のためのロシア語教師をしていますが、語学研修の留学生がここによくやって来ます。研修の一環でわたしは他の教師たちとともに留学生たちのための文化プログラムを考案しています。たとえば、アジアからの留学生を家に招き、ロシア料理教室を開いたこともあります。一緒にブリヌィ(パンケーキ)を焼き、ペリメニ(水餃子)を作り、仲良くみんなで食べました。
 もしこの家が撤去されたら、住人たちは別の住宅に移ることになるわけですが、天井が3メートルもあって、床や壁がしっかりしていて、防音性も高い今のような住宅を手に入れることはできないでしょう。同じ管区に建てられている新しい住宅は質が良いとはとても言えません。しかも隣の地区に移住することになる可能性だってあるのです。

 それでも、わたしはこの住宅を守ることができると思っています。この住宅はとてもいい家です。もちろん本格的なリフォームをする必要はあり、2027年に修繕工事が予定されていますが、もし撤去を避けることができたなら、もっと早い時期にリフォームしてもらえるよう掛け合うつもりです。

アレクセイ・ルィサコフ(4階住人)
「住宅には60世帯が住んでいますが、中庭の面積はもっと多くの世帯が暮らすパネル住宅の中庭と変わりません。子どもたちの遊び場としても、駐車用スペースとしても広さは十分です」
「住宅には60世帯が住んでいますが、中庭の面積はもっと多くの世帯が暮らすパネル住宅の中庭と変わりません。子どもたちの遊び場としても、駐車用スペースとしても広さは十分です」
 わたしの家族は今から30年以上前にこの住宅に引っ越して来ました。わたしがまだ本当に小さかったときのことです。両親はこのフルシチョフカがパネル住宅でなく、品質の高い住宅だと知って、わざわざここを選んだのです。今は妻と4人の子どもと一緒に暮らしています。
 わたしたち家族はここに根を張っています。わたし自身この家で育ち、2年生からすぐ隣にある学校に通い、ここで幼年時代、青年時代を過ごしました。今わたしの子どもたちが遊んでいる中庭で、かつて友達と「コサックと追い剥ぎ」ごっこをし、水鉄砲で戦闘ごっこをしました。その当時から中庭はほとんど変わっていません。ただわたしの小さい頃は中庭の3分の1を覆っていた巨大なハコヤナギの木が切られてしまいました。

 それでも今もこの中庭はとても快適で静かです。住宅には60世帯が住んでいますが、中庭の面積はもっと多くの世帯が暮らすパネル住宅の中庭と変わりません。

 子どもたちの遊び場としても、駐車用スペースとしても広さは十分です。

ステパン・ヤコヴレフ(5階住人)
「何れにしてもわたしは楽観主義者なので、この住宅を守ることができると思っています」
「何れにしてもわたしは楽観主義者なので、この住宅を守ることができると思っています」
 2005年に引っ越して来ました。今は妻と息子の3人暮らしです。ときどき一人暮らしをしている長女が帰省してきます。これはわたしにとって初めてのマイホームで、とても大きな意味があります。自分がこの家の持ち主だと感じられるのは気分の良いものです。わたしは5階に住んでいるので屋根から雪どけの水が漏れてくることがあります。管理会社に電話すると、明日行くと言うのですが、電話している今、雨漏りしているのですから明日では遅いわけです。そんなときは自分で鋸を使って屋根裏の鍵部分を切って、氷の掃除をします。
この地区も気に入っています。映画「運命の皮肉、あるいはいい湯を」で主役がわたしの家の窓から見える6階建ての住宅の横を歩いているシーンを見ると鳥肌がたちます。

 この家の住人の中には計画を支持している人もいますが、大部分が解体には反対しています。とはいっても、賛成派は60世帯のうち5軒くらいでしょう。それは主にコムナルカ(集合住宅)に住む人たちです。もし隣人の多くが突然、立ち退きに同意したら、腹立たしく感じます。しかしそれも公正な意見です。住宅は皆の共有の所有物なのですから。それでも市長がやって来て「立ち退きした皆さんには好きなところに移ってもらえます」と言うのはやはりおかしいのではないかと思います。しかし、何れにしてもわたしは楽観主義者なので、この住宅を守ることができると思っています。
「わたしたちの住宅はよそから見ても
悲しいもの」

 ゲネラル・ルィチャゴフ通り6番地の住人たちも、自分たちの住宅が撤去されるのを真に願っている。そのごくありふれたフルシチョフカはコプテヴォ地区に位置している。この地区には地下鉄もなく、2016年になってようやくモスクワ中央環状線の駅が開通したが、それでもモスクワ中心部まで50分はかかる。家が建てられたのは1962年だが、多くのフルシチョフカとは異なり、パネルでなく、レンガでできている。これに関し住人たちは、最初に撤去されるのは隣接するパネル住宅の住人たちではないかと心配している。
イリーナ・コピヨーワ(1階住人)
「わたしにとってとても大切なのは『住宅内のお天気』とでもいうものです。部屋はリフォームしてもやはり好きにはなれませんでした。狭くて不便で、すべてが何か違うのです。引っ越したいかと訊かれれば、『出て行けと言うなら、その日の夜には荷物まとめて出られます』と答えます」
「わたしにとってとても大切なのは『住宅内のお天気』とでもいうものです。部屋はリフォームしてもやはり好きにはなれませんでした。狭くて不便で、すべてが何か違うのです。引っ越したいかと訊かれれば、『出て行けと言うなら、その日の夜には荷物まとめて出られます』と答えます」
 この住宅は1962年に建てられたもので、そのとき夫家族が入居しました。家はもともと夫の祖父のものだったのですが、それから義父のものとなり、4年前からわたしと夫と小さな子どもの3人で住むようになりました。それまでわたしたちはモスクワ州にある新興住宅に住んでいたのですが、そこはここよりずっと住みやすく、広々としていました。お隣さんとは皆知り合いで、お互いに家を訪ねたり、祝祭日に集まったりしていました。しかし夫がモスクワ郊外から仕事に通うのには不便だというので引っ越すことになりました。

 こちらに移ってからリフォームしました。すべての管、それから電気も新しくしました。床には古いリノリウムの下に大きな穴が開いていました。しかしいくらリフォームしても部屋はやはり使いにくいままでした。夫婦2人で暮らす分にはまだいいのですが、子どもが生まれてからは不便な点を痛感するようになりました。ベビーカーは玄関には置けず、他にスペースもないので、ソファの横に持ってこなければなりません。子どもはもうすぐハイハイを始める月齢になりますが、部屋にはハイハイするスペースすらありません。ベビーカーの周りをハイハイして、タイヤを舐めたりしたら大変です。
 わたしが知る限り、この家は25年使うことを見込んで建設されたようですが、わたしたちはもう50年もここに住んでいます。まったく時代遅れの不便な住宅です。あるとき食器棚を買ってきてキッチンに置いたのですが、そうするとテーブルを置くスペースがなくなり、仕方なく棚を部屋に置く羽目になりました。家はレンガ作りですが、防音性が低く、隣の玄関ホールの家の住人が何を話しているのかも丸聞こえです。我が家の子どもたちもユニゾンで叫んでいます。この家は本当によそから見ても悲しくなるほどです。

 わたしにとってとても大切なのは「住宅内のお天気」とでもいうものです。部屋はリフォームしてもやはり好きにはなれませんでした。狭くて不便で、すべてが何か違うのです。引っ越したいかと訊かれれば、「出て行けと言うなら、その日の夜には荷物まとめて出られます」と答えます。夫もお隣さんもただただ喜ぶでしょう。移住先はどこでもかまいません。もちろんモスクワ郊外には移りたくありませんが、今の管区内であれば問題ありません。幼稚園は作ればいいことですし、道路事情はモスクワに住んでいればどこにいたって同じです。

「古いものを否定せずに新しいものは
作れない」
 ヴヴェジェンスキー通り7番地のフルシチョフカはベッドタウンのカニコヴォ地区にある。公共交通機関で中心地まで移動するには1時間ほどかかる。中心地から遠いというデメリットは、閑静で落ち着いた環境というメリットで相殺される。中庭に出れば、子どもたちが走りまわり、住人たちがバルコニー越しに会話をしていて、その長閑な雰囲気はまるで地方都市にやってきたかのようだ。

 しかしそれ以上のメリットはない。建物は災害を起こしかねない状態にあり、玄関に入るとすぐに水漏れのしみや壁のカビが目に入る。そして部屋に一歩入ると、こんな狭いところでどうやって暮らせるのかと問いかけずにはいられない。住人たちはもう1年以上前から、市がパネルのフルシチョフカから移住させてくれるのを待っている。今回、住人たちは、今度こそ幸運の女神が自分たちに微笑んだと感じた。3月にモスクワ市議会都市建設委員会のオレグ・ソロカ副委員長が、モスクワ市で最初に撤去されるのはI-515シリーズのフルシチョフカだと言明したのだが、ヴヴェジェンスキー通りの住宅はまさにこのシリーズに当たるからだ。

チホン・イグナトキン(1階住人)
「隣人たちも皆そうだと思いますが、この家を撤去してもらい、まともな住宅を手にできたらと思っています」
「隣人たちも皆そうだと思いますが、この家を撤去してもらい、まともな住宅を手にできたらと思っています」
 2011年に婚約者とここに越してきました。この住宅の部屋は親戚から譲られたもので、わたしに選択肢はありませんでした。両親と離れて2人で暮らせる家を手に入れることができたのはラッキーでした。しかし、家はそのときすでに何が起きてもおかしくない状態でした。

 引っ越してすぐにわたしたちはすべて修理しました。部屋はまったくひどい状態でしたから。たとえば配電線はすべて焼けてしまっていて、コンセントは一つも使えない。入居したばかりのときには床に穴がいくつも開いていて、地下が見えていました。人の住める状態にするのに3ヶ月かかりました。

 リフォーム後しばらくはなんの問題もなく過ごせました。しかし1年経つと元どおり。要するにわたしたちの住宅はもうリフォームする意味がないのです。管という管が老朽化し、しょっちゅう詰まります。地下の水道管が破裂して、水なしで丸一日過ごしたこともなんどもあります。壁には常に黒いカビがはびこっていて、磨いても磨いてもすぐ出てきます。去年は壁の一部が崩れおちました。朝早くものすごい音がして、爆撃でも始まったのかと思ったら、壁が割れていたんです。

  隣人たちも皆そうだと思いますが、この家を撤去してもらい、まともな住宅を手にできたらと思っています。ここに住む多くは、この家を親から譲り受けた若い家族です。この小さな部屋に子どもたちと過ごすのに疲れてしまいました。

 この家は最初に撤去されるシリーズのものだと聞いています。お金を使って大きなリフォームをしましたが、仕方ありません。古いものを否定せずに新しいものを作ることはできないのです。新しい住宅は何かよりよいことを試みるチャンスだと思っています。
ネリー・マルダノワ(5階住人)
「ここのキッチンはたった4平方メートルです。わたしは4人家族ですが、家族そろって一つのテーブルについて食事することができません」
「ここのキッチンはたった4平方メートルです。わたしは4人家族ですが、家族そろって一つのテーブルについて食事することができません」
 夫と2人の子どもとここに住んで6年になります。最初はここの生活条件に慣れなくてとても大変でした。わたしはタタールスタンからモスクワに移ってきたのですが、タタールスタンでは両親の大きな持ち家に住んでいました。キッチンだけでも25平方メートルありましたが、ここのキッチンはたった4平方メートルです。わたしは4人家族ですが、家族そろって一つのテーブルについて食事することができません。以前は祖父も一緒に暮らしていたのですが、家が狭すぎるので他所に移ってしまいました。

 入居したばかりの頃はもっとひどい状態でした。以来、家を少しでも快適にしようと努力しましたが、思うような結果は得られませんでした。わたしたちはもうリフォームするのもやめてしまい、今では子どもたちが壁紙にお絵かきしても怒りません。バスルームの管は腐敗して、直立管はずっと詰まった状態です。雨の日、雪の日は雨漏りし、天井のクロスは船の帆のように垂れ下がっています。送風管も機能していません。鳩が住み着いていて、羽をバタバタさせる音が聞こえることもあるくらいです。幸い、以前はよく見かけたゴキブリはあまり見なくなりました。

 パネル住宅は防寒性がよくありません。リフォームしたときに壁と床の間に外が見えるほどの隙間があるのに気づきました。隙間は発泡ウレタンでふさぐしかありませんでした。窓枠は木でできていますが、子どもたちには絶対近づかないよう言い含めてあります。いつ壊れるか分かりませんからね。

 この住宅は人が住むために作られたものではありません。とうの昔に撤去されるべきものです。惜しいなんて気持ちは微塵もありません。とはいえわたしは故郷に帰ることもできません。実入りのいい地域ではありますが、キャリアを積める場所ではないのです。モスクワではわたしは今ある店の店長をしています。

テキスト:ヴィタリー・ミハイリュク
編集:ポリーナ・コルティナ、マクシム・コルシュノフ、リュチア・ベリネッロ
写真: アレクセイ・ニコラエフ、ステパン・ジャルキー
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