ソ連からの亡命者:最も有名な5人

彼らは、より良い生活を求めて故国を離れた。その多くは、もはやふるさとに戻ることはなかった。

1. ミハイル・バリシニコフ(1948年~)

 海外に亡命する前、バリシニコフは、サンクトペテルブルク(当時はレニングラード)のキーロフ劇場(当時、マリインスキー劇場はそう呼ばれていた)のソリストだったが、彼にはさらなる夢があった。彼は、祖国を去ることを決意した。

 1974年、トロント公演中に、彼は政治亡命を申請した。アメリカン・バレエ・シアターでのバリシニコフの初公演では、彼のカーテンコールは、20回以上におよんだ。彼は1978年に、有名な振付師ジョージ・バランシンが率いるニューヨーク・シティ・バレエ団に移籍して、そこで踊り、さらに、1977年には映画『愛と喝采の日々』に出演して、オスカーにノミネートされた。複数の劇場で、芸術監督を務めた。写真家でもある。

2. スヴェトラーナ・アリルーエワ(1926~2011年)

 彼女は、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンの娘だ。1967年にインドへ赴き、インド人の内縁の夫、ブラジェーシュ・スィンの遺灰を、ガンジス川に流すことになっていた。デリーでアリルーエワは、アメリカ大使館に行き、亡命を求めた。彼女は、娘と息子をソ連に残していた。

 米国に定住した彼女は、回想録を何冊か出版し、結婚してラナ・ピータースを名乗った。1984年にアリルーエワは、モスクワを訪れたものの、2年後には米国に戻った。

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3. ルドルフ・ヌレエフ(1938~1993年)

 1961年、キーロフ劇場は、フランス公演に出発した。ダンサーの一人、ルドルフ・ヌレエフは、ソ連の秘密警察「KGB」の特別な監視下にあり、KGBは、彼を出国させたくなかったが、フランス側は、それを主張した。

 パリでダンサーは、疑わしいほど自由に振舞った。「外国でのソ連国民の行動規則に違反し、一人で市内に入り、夜遅くホテルに戻った」。ソ連当局は、ヌレエフをモスクワに送還しようと企て、実際に空港に連れて行った。

 しかし、ダンサーは不可能なことがらを実行した。文字通り、諜報員の包囲から飛び出した。驚いたフランス警察に対し、自分は当地に残りたいと告げた。

 ルドルフ・ヌレエフは後に、自分のキャリアの中で最も高く、最もエキサイティングな跳躍をしたのはこの時だ、と語った。

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4. アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986年)

 1983年夏、ミラノでスキャンダルが勃発した。映画『鏡』や『惑星ソラリス』などを製作した名匠は、記者会見で、ソ連には戻らないと宣言した。この少し前に、タルコフスキーは、「ゴスキノー」(ソ連閣僚会議映画国家委員会)のフィリップ・エルマシュ委員長に、イタリア出張の延長を求めていた。

 タルコフスキーは、映画『ノスタルジア』の製作を終えており、それは、カンヌ国際映画祭で監督賞などを受賞した。そして彼は、さらに3年間イタリアに留まりたいと考えた。しかし、彼の要請は拒否された。そこで彼は、ラディカルな行動に出ることに決めた。

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5. ヴィクトル・コルチノイ(1931~2016年)

 チェスのソビエト選手権で、4回チャンピオンになっている。世界選手権戦の挑戦者決定戦には、計10回出場し、2回優勝している。

 1974年に彼は、挑戦者決定戦でアナトリー・カルポフに敗れ、自分の負けは不当だと考えた。これを受けて、コルチノイは、海外渡航を禁じられた。禁止が解除されたのはようやく1年後のことだ。

 1976年、アムステルダムでのトーナメント中に、コルチノイは、ソ連への帰国を拒否した。彼は、祖国では世界タイトルを狙えるチャンスが少なすぎると信じていた。その結果、彼は、同胞たちから批判を浴びる。78年、81年に、世界チャンピオンのカルポフと2度対戦したが、いずれも大接戦の末に敗れた。

 1990年、ヴィクトル・コルチノイは剥奪されていたソ連国籍を返還されている。

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