ロシアでカーチャ・レリは、ほとんど忘れ去られた過去の「一発屋」である。そしてその1曲だけ売れた曲というのが「わたしのマーマレード」という歌。リリースされたのはほぼ20年前のことであるが、曲はその当時のヒット曲となり、カーチャ・レリは2000年代のポップスターの一人となった。しかし、以来、その人気はもはや跡形もなくなり、彼女の唯一のヒット曲は懐メロ番組などでしか耳にすることのないものとなった。
しかし、突然、予期せぬことが起こった。11月初旬、この「わたしのマーマレード」がTikTokの国外セグメントで大バズりし、新たなトレンドを生んだのである。ユーザーたちは、この曲に乗せて、いわゆる「スラヴの女の子」のイメージ(その多くは毛皮の帽子やコートを身につけ、赤い口紅をつけたもの)を挙って披露し、歌詞の意味もよく分からずに歌を口ずさんでいる。
この曲を使った動画の数は実に数十万件にのぼり、中には再生数が数百万回に達しているものもある。そしてこれにより、12月にこの曲は、Spotifyのもっとも拡散された曲ランキングで、テイラー・スウィフトの「イズ・イット・オーバー・ナウ?」やミツキの「マイ・ラブ・マイン・オール・マイン」を抑えてトップ3に入った。
この曲の人気再燃は、カーチャ・レリにとって大きなサプライズとなった。
頭にこびり付いて離れないサビでは、「ムアムアを試してみて、ジャガジャガを試してみて。ウーウーをやってみて、わたしにはそれがマスト・マストなの。また頭がクラクラしてきたみたい。わたしのマーマレード、わたしは間違ってる」と歌われている。
この歌詞の内容、そして歌全体の意味は、ずっとロシア語ネイティヴの観客にもよく分からないものであった。「ムアムア」はキスのことだろうと想像がついたとして、ではジャガジャガとは一体何のことなのだろうか?
カーチャ・レリ、2006年
Mikhail Fomichev/TASSカーチャ自身はこれについて次のようにコメントしている。「セックス、快感・・・、聞く人それぞれ、好きなように想像してくれればいいの。わたしにとっては、単に、『やぁ、元気?すべて最高だよ!』というくらいのもの。それは愛であり、優しさであり、人生の喜びでもあり・・・。あなたがほしいものすべて、一番素敵なもののすべてがジャガジャガなの」。
ちなみに、曲の内容を簡単に説明すると、自分に自信のあるヒロインが、 好意を寄せてくれる人からの思いを受け止めるべきか、それともこのまま距離を保つべきか決められず、ときに毒のある態度をとるというもの。
2003年にリリースされた 「わたしのマーマレード」は、アルバム「ジャガジャガ」(2004年)のメイン曲となっただけでなく、彼女の歌手生活においてもっとも重要な歌となった。
カーチャ・レリ(本名エカテリーナ・チュプリニナ)は音楽大学卒業後、ナリチクからモスクワに移り住んだ1990年代半ば、ステージに立つようになった。元々、人民アーティストの称号をもつレフ・レシェンコのバックボーカルを務めていたところ、ビジネスマンのアレクサンドル・ヴォルコフの目に留まることになる。その後、2人は付き合うようになり、カーチャはソロとしてのキャリアをスタートさせた。
カーチャ・レリ、2008年
Stanislav Krasilnikov/TASS音楽ジャーナリストのオレグ・カルムニンによれば、カーチャは当初、「誠実ではあるものの、要求のそれほど高くない一般大衆のためのかなり単純な音楽――おしゃれでもなく、現代的でもない、愛や別れの辛さをテーマにした曲を歌っていた」。
しかし、そのキャリアにおいて何度目かのリセットが必要であることを理解した彼女は、当時最高の敏腕プロデューサーで、ソングライターであったマックス・ファデーエフを起用した。危機管理の枠内でファデーエフに課せられた課題は、ヒットアルバムを1枚リリースすること、そしてカーチャ・レリのイメージを一変し、「彼女を若返らせる」ことであった。
こうして作られたのが、「わたしのマーマレード」という曲とそのミュージッククリップである。このミュージックビデオのためにカーチャは53キロあった体重を46キロにまで減量し、またそれまでのトレードマークだった「スモーキーアイズ」メイクと派手な口紅を「落とし」、ヘアスタイルは、「ヘアセット剤」にただの雪を使っただけのシンプルなものにした。
そしてこのイメチェンは功を奏した。歌の中で軽い外国風のアクセントを真似て、動画ではただソファに座って歌うカーチャ・レリは、国内のヒットパレードに爆弾を落とした。2003年、この歌はどのラジオ番組からも流れるようになり、カーチャ・レリはしばらくの間、セックス・シンボルとなった。
まもなく、この歌の英語バージョンが作られ、カーチャはこの曲をお笑い番組「気をつけて、モダン!」で披露した。
プロデューサーは、当時その名を轟かせていた女性デュオ「t.A.T.u.」のような世界的ヒットを期待していたが、それは叶わなかった。英語バージョンは残念ながら誰の目にも留まらなかった。
この後、カーチャが特筆するような成功を収めることはなかった。彼女を「蘇らせた」マックス・ファデーエフはその後、別のプロジェクトを手掛けるようになり、カーチャはマックスなしでソロ活動を継続。その後、ポップ・シャンソンからレイヴ音楽まで、さまざまなレパートリーを収めたアルバムを10枚リリースしたが、結局、ポップスターのトップクラスに躍り出ることはできなかった。
カーチャ・レリ、2022年
Artem Geodakyan/TASSロシア・ビヨンドのニュースレター
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