都市に名前がついた10人のソ連人:その面々と経緯は

 ソ連政府は、通りや都市の名前なども含め、帝政時代に関連するすべてを消去しようとした。 1920 年代と1930年代にこの「改名ブーム」がソ連を席巻すると、大都市も小さな町や村も、ソ連のヒーローや指導者の名前を冠せられた。しかし、独裁者スターリンの死後、多くの都市が、結局、元の歴史的な名前に戻された。

1. ウラジーミル・レーニン→サンクトペテルブルクその他

 ロシアの10月革命の指導者、ウラジーミル・レーニン自身は、個人崇拝をつくりだすことを支持しなかった。にもかかわらず、また彼の妻、ナデジダ・クルプスカヤのあらゆる勧告にもかかわらず、1924年に彼が亡くなると、ロシア帝国の旧首都サンクトペテルブルクは、彼に敬意を表してレニングラードと改名された。

 サンクトペテルブルクは確かに最も「帝国的」な都市であり、その名前は、「ピョートルの街」というドイツ語だ。一方、言うまでもなく、レニングラードは、「レーニンの街」というロシア語である(注:1914 年に、この都市は、第一次世界大戦による反ドイツ感情の煽りで、ペトログラードと正式に改名されていた)。

 1990 年代に、この都市は、歴史的な名前であるサンクトペテルブルクが復活した。しかし、周辺地域(州)の住民は、州発行の文書を変更する必要がないように、州の名前を変更しないことを投票で選んだ。そのため、今でもレニングラード州と呼ばれている。

 レニングラードに加えて、ソ連全国の 50 を超える小さな町や村にも、この指導者の名前のさまざまなバリエーションが与えられた。レーニンスク、レーニノ、イリイチ(レーニンの父称にちなんで)、レニノゴルスク、その他多数。

 さらに、レーニンが生まれたシンビルスク市は、ウリヤノフスク(ウリヤノフはレーニンの本姓)と改名され、今日でも同市はこの名のままだ。

2. ヨシフ・スターリン→ヴォルゴグラードその他

 1924 年、独裁者ヨシフ・スターリンは、大規模なキャンペーンを開始した。すなわち、帝政時代を連想させる都市の名前を変更すること。「一般の人々の要請により」、ソ連中の多くの都市や小さな町は、スターリンの生前には、彼の名にちなんで改名された。

 疑いなく、スターリンにちなんで命名された最も有名な都市はスターリングラードだ。この都市は、第二次世界大戦の最大かつ最も血腥い戦いの一つが起きたことで知られている。

 1925 年以前、この都市はツァリーツィン(文字通り「ツァリーツァつまり皇后、女帝の都市」と呼ばれていた。1961 年にスターリンの個人崇拝が非難された後、この都市も他の多くの都市と同じく再度改名された。それ以来、ヴォルゴグラードの名前が付いている。

 1930年代から1961年まで、シベリアのケメロヴォ州のノヴォクズネツク市はスターリンスクと呼ばれていた。トゥーラ州のノヴォモスコフスクはスタリノゴルスク。 タジク・ソビエト共和国の首都ドゥシャンベはスターリナバードと呼ばれていた。

 1924年、ソビエト・ウクライナにあった現在のドネツク(ドネツィク)は、初めはスターリン、その後はスターリノに改名された。もともとは、帝政時代にそこで金属加工を開発した創業者、ウェールズの実業家ジョン・ヒューズにちなんでユゾフカと呼ばれていた。

3. セルゲイ・キーロフ→ヴャトカ

 スターリンの最も親しい友人で側近の一人だったセルゲイ・キーロフは、ソ連共産党のエリートであり、国の高官だった。彼は党内だけでなく、国民の間でも非常に人気があった。しかし1934年、キーロフは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の執務室へ向かう廊下の途中で、射殺された。

 彼の殺害に続いて、弾圧と容疑者の処刑の波が続き、ソ連における「大粛清」の発端となった。1934年から今日に至るまで、ロシアの古都ヴャトカは、この殺害されたボリシェヴィキが近くの小さな町で生まれたことから、キーロフと呼ばれている。

 また、アゼルバイジャンの都市ギャンジャは、ロシア帝国時代にエリザヴェトポリと呼ばれていたが、1935年から 1989 年まではキロヴァバードと呼ばれていた。

4. ミハイル・カリーニン→カリーニングラードその他

 長年にわたり、ミハイル・カリーニンはソ連の高官の一人であり、ソ連中央執行委員会議長、ソ連最高会議幹部会議長(国家元首に当たる)を歴任。ロシア社会主義連邦ソビエト共和国中央執行委員会議長も務めた(ソ連時代、ロシアは、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国と呼ばれていた)。古参ボリシェヴィキとして、カリーニンは国民によく知られ親しまれていた。

 1946年、第二次世界大戦後にソ連領となった旧東プロイセンの都市ケーニヒスベルクは、亡くなったばかりのカリーニンに敬意を表して、カリーニングラードと改名された。今日、この都市にはまだこの名前が付いている。

 また、彼の生前には、2つの都市がカリーニンにちなんで命名されていた。それで、モスクワ州にはもう一つの「カリーニングラード」があった。現在、コロリョフとして知られている宇宙センターの町で、1938~1996年にこの名だった。

 さらに、ロシアの古都トヴェリは、1931~1990年にカリーニン市だった。この古参ボリシェヴィキがトヴェリ県(現在は州)で生まれたからだ。

5. ヤーコフ・スヴェルドロフ→エカテリンブルク

 古くからの革命家で古参ボリシェヴィキのヤコフ・スヴェルドロフは、エカテリンブルク出身ではない。ニジニ・ノヴゴロドで生まれ、兄のジノーヴィ・スヴェルドロフ・ペシュコフは、作家マクシム・ゴーリキーの名づけ子だった(後にフランス外人部隊に入り、シャルル・ド・ゴールの友人になる)。

 ヤコフ・スヴェルドロフはエカテリンブルクに住み、1900 年代初めに非合法の革命活動を始め、その後エカテリンブルクの刑務所に収監されている。1919年、スヴェルドロフはインフルエンザの大流行中(スペイン風邪)に亡くなった。

 エカテリンブルクはピョートル大帝(1世)によって建設され、妻のエカチェリーナ 1 世にちなんで名付けられた。そのため、ボリシェヴィキ政権の考えでは、この都市は改名が必要だった。 1924年、市ソビエトは、スヴェルドロフにちなんで市の名前を付けることにした。ソ連崩壊後の1991年、市は再びエカテリンブルクに改められたが、市周辺の地域は、引き続きスヴェルドロフ州と呼ばれている。

6. マクシム・ゴーリキー→ニジニ・ノヴゴロド

 最も有名なソ連のプロレタリア作家の一人、マクシム・ゴーリキーは、ニジニ・ノヴゴロドの生まれで、自伝的な小説でしばしばこの街を描いている。1932年に、彼の文学活動 40周年を記念して、ソ連当局は、ニジニ・ノヴゴロドをゴーリキーに変更することで彼を称えることに決めた。その後、ソ連中の何千もの通り、広場、公園も、ゴーリキーにちなんで名付けられた。ニジニ・ノヴゴロドがその歴史的な名前を取り戻したのは、ようやく1990年のことだ。 

7. ワレリヤン・クイビシェフ→サマラ市その他

 このボリシェヴィキは、帝政時代には貴族だった。彼の父親は将校であり、クイビシェフもオムスク幼年団(陸軍幼年学校)で学んだ。そこで将来の共産主義革命家たちと出会い、彼らの非合法クラブに参加した。1905年、第一次革命に際し、反政府集会に参加したとして逮捕された。流刑先のシベリアの都市カインスクは、1935年の彼の死後、クイビシェフと名付けられた。

 1917 年のロシア革命の間、クイビシェフは、ヴォルガ沿岸の都市サマラで、サマラ革命委員会議長となり、同市でボリシェヴィキの武装蜂起を指揮し、ソビエト権力を樹立する責任を負っていた。1935~1991年に、サマラ市は、他の多くの都市(現在のタタールスタン共和国のボルガル)や数十の村とともにクイビシェフと呼ばれていた。 

8. セルゴ・オルジョニキーゼ→ウラジカフカスその他

 セルゴ・オルジョニキーゼは、貴族の生まれで、古参ボリシェヴィキの一人だが、1937年の「大粛清」で亡くなった。革命後の内戦中は、クリミアとコーカサスを含む旧帝国の南部全体で赤軍を指導した。

 グルジア人だった彼は、スターリンの親友の一人であり、ソ連の指導者の一人でもあった。1931~1944年に、北オセチアの首都ウラジカフカスは、オルジョニキーゼがソビエト政権の確立に貢献したことを記念して、オルジョニキーゼと改名された。その後、ソ連全国の数十の村や町がオルジョニキーゼと呼ばれるようになった。ウクライナのエナキエヴォ市やポクロフ市も同様に改名されている。

9. ヴャチェスラフ・モロトフ→ペルミ市

 この筋金入りの外交官は、1917年の革命、1937年のスターリンの大粛清、そして第二次世界大戦と続く激動の時代を生き延びた。そして、スターリンの死後も、ソ連の高官としての地位を保てた、稀な古参ボリシェヴィキの一人だ(しかも、96歳の長寿をまっとうした)。彼は、長年にわたり外交を担当し、1939年にはモロトフ=リッベントロップ協定としても知られる独ソ不可侵条約に調印した。

 1940年、モロトフの50歳の誕生日を記念して、ウラルの都市ペルミがモロトフと改名されたが、1957 年に歴史的な名前に戻った。1940~1957年に、モロトフの両親の出身地であるキーロフ州では、ノリンスクがモロトフと改名。他にも多数の町村が彼にちなんで命名され、今日でもモロトヴォ、モロトフスク、モロトフスキーなどの地名が残っている。

 ちなみに、火炎瓶「モロトフ・カクテル」は、彼にちなんで、フィンランドとの「冬戦争」のさなかに名付けられた。

10. ワレリー・チカロフ→オレンブルク

 ワレリー・チカロフはパイロットで、「ソ連邦英雄」の称号をもつ。

 彼は、1937年にモスクワから北極点を経由してアメリカのバンクーバーまで、1万2千キロメートル超の無着陸飛行に初めて成功したことで最も有名だ(飛行時間は63時間25分)。

 彼は 1938年にテスト飛行中に悲劇的な死を遂げた。それ以来、ニジニ・ノヴゴロド州の彼の故郷、ヴァシリョヴォは、チカロフスクと改名された。今日でも、ロシア全土に、チカロフ、チカロフスク、チカロフスキーなど、彼にちなむ名が広く見られる。1938~1957年にオレンブルク市はチカロフと呼ばれていたし、オホーツク海にはチカロフ島もある。

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