ソ連で大金を稼げたのは誰か:「平等の国」にも億万長者がいた

ソ連特集
ゲオルギー・マナエフ
「平等の国」には、実際に王様のように暮らしていた人もいた。

 ヴァディム・トゥマノフは2015年のインタビューでこう語った。

 「私はよく『最初の百万長者』だと言われる。確かに私は多くの収入を得た。普通の『アルテリシク』(アルテリつまり協同組合の作業員)でさえ、どこで働いても、地方の党委員会書記よりも多くもらったからだ!書記たちはそれで頭に来ていたものだ」

アルテリシクとは何か  

 ヴァディム・トゥマノフは、「ペチョーラ」という金採掘アルテリの有名なリーダーだった。この類のアルテリは他にもあった。トゥマノフが立ち上げたアルテリには、今日にいたるまで極東で操業している「アムール」も含まれる。それらは合計で 500㌧以上の金を掘り出している(1960年代、ソ連での金の総生産量は年間約 150~170だったから、トゥマノフの作業員は相当な量を採掘していたわけだ)。

 アルテリは、ソ連経済のいたるところにあった半公式の作業集団だ。アルテリは家具、玩具を生産し、季節産業で働いた。つまり、漁業、作物の収穫、食用のベリーの採集などだ。しかし、もちろん、金を掘るアルテリが最も収益性が高かった。経験豊富な鉱山労働者だけが効果的に金を採掘できるため、国は彼らを必要としていた。アルテリは1980年代まで活動していた。

 トゥマノフの作業員たち(アルテリシク)はどのくらい稼いだのか?彼らは、12時間シフトの無休で働き、ほとんどが北部の過酷な環境で、1シーズン(3~4か月)で約 1万ルーブル稼ぐことができた。これは莫大な給料で、大臣の公式の給料でさえ月額約1千ルーブル(税引き後)にすぎなかった。

党幹部の収入と比べると

 共産党幹部は、ソ連の典型的な「金持ち」だった。だから、誰もが自分の給料を党幹部の給料と比較したものだ。党幹部は「平の」公務員よりも裕福だった。ソ連政府の大臣の給料は約1千ルーブルだったが、ソ連共産党中央委員会の書記は(彼らのランクは実は大臣よりも低かったのだが)、約1千ルーブルもらっていた。

 ソ連共産党中央委員会書記長は(ニキータ・フルシチョフ、レオニード・ブレジネフ、ミハイル・ゴルバチョフら、ソ連の最高指導者はみなこの地位にあった)、月に1500ルーブルもらっていた。

 1970年代および1980年代のソ連の平均給与は、月額約150ルーブルだった。「上層」に属さない労働者(積み込み作業員、看護師、販売員、清掃員、警備員、用務員など)は、約70~80ルーブル。 教師、医師、トラック運転手、機械オペレーターなどの仕事は、120~150ルーブル。エンジニアは 130~220ルーブル。生産現場の経験豊富な熟練労働者の給与は、300~350ルーブルに達することがあった。工場の最高経営責任者は、月に 300~450 ルーブルになることがあった。

エンタメのスターたち

 有名な歌手、ミュージシャン、または漫才師になることで、ソ連でも、豊かさへの「扉が開かれた」。当時は有名人が少なかったので、名前が売れれば贅沢な暮らしを享受できた。

 国家に正式に雇用された歌手、ミュージシャン、その他のエンターテイナーは、それぞれのステータスに応じて給与をもらった。各ソビエト共和国さらにはソ連の名誉称号を得たアーティストは、1回のコンサートで最大 40ルーブルを稼ぐことができた。これはエンジニアの給料の 3分の1だ。「人民芸術家」の称号を持っていれば収入はもっと多かった。ただし、実際の収入は非公式であり、贈り物として受け取っていた。たとえば、民謡歌手リュドミラ・ズイキナは、ソ連副首相ゲイダル・アリエフから 127個のダイヤモンドを連ねたネックレスをもらった。

 歌手や芸能人の公式給与は、実際の収入とはかなり異なることがあった。シンガーソングライター・俳優のウラジーミル・ヴィソツキーは、1回のコンサートに対する公式の給料はわずか11, 50ルーブルだったが、アングラや非公式のコンサートでは500ルーブルの収入があった。一方、俳優としての彼も高給だった。映画『ピョートル大帝の黒人』(1976)で主人公の黒人(詩人アレクサンドル・プーシキンの曾祖父アブラム・ガンニバル)を演じたことで、ヴィソツキーは 3450ルーブルを得たと言われている。

作家・詩人

 ソ連の作家・詩人の収入は、執筆量 + 書籍の各部に対する印税。つまり、本の部数が多ければ多いほど、その著者は裕福になったということだ。

 著者のステータス、権威を考慮して、執筆量が違ってくることもある。23~25頁の印刷テキストで250~800ルーブル。 しかし、主な収入は印税によるものだった。児童向けの詩人であり、ソ連国家の歌詞を書いたセルゲイ・ミハルコフは、おそらくソ連で最も富裕な作家として有名であり、彼の本の総発行部数は 3 億部を超えていた。

 現在のロシアではほぼ忘れられた劇作家アナトリー・バリャノフは、1949年に戯曲『向こう側で』の上演に対する印税として92万700ルーブルを得た。ちなみに、1950年代のソ連の最高級車「ポベーダ」(勝利)の価格は約1万5千ルーブルだった。

 しかし、作家、詩人、劇作家の主な資産は、彼らの私有ではなかった。「公式に認められた」創造的な労働者、作家同盟およびその他のクリエイティブな組合のメンバーとして、彼らは、所属する組織独自のサナトリウム、療養所を使う権利を持ち、国有の別荘(ダーチャ)と広壮なアパートを与えられた。しかし、作家が共産党政権の「寵」を失った場合、これらすべての贅沢はいつでも取り消されかねなかった。