ソ連の子供の稼ぎ方

ソ連特集
ゲオルギー・マナエフ
 ソ連の法律では14歳未満の子供は働いてはいけなかった。しかし十代の少年はどうしたって小遣いが欲しい。ソ連の子供たちの「解決策」とは?

空き瓶のリサイクル 

 瓶のリサイクルはソ連の子供がまず思い付くことだった。どの町の地区にもリサイクルセンターがあり、そこで標準的なビールやレモネード用の500ミリリットル瓶を出せば12コペイカ(0.12ルーブル)、牛乳瓶を出せば15コペイカ、700ミリリットルのワイン瓶を出せば17コペイカを受け取ることができた。カップかコーン付きのアイスクリームは7~28コペイカだったから、瓶を集めるのは楽な小遣い稼ぎだった。しかし、瓶のリサイクルセンターによっては、規定の年齢に達していない子供から瓶を受け取ることを拒む所もあった。しかし、子供たちが簡単にルーブルを得られる方法は他にもあった。特に夏場だ。

 

薬草集め 

 ソ連の薬局(ロシア語で「アプテーカ」)はロシアに自生する薬草を一定量集める責任を負っていた。オオバコ、イラクサ、フキタンポポ、カモミール、タンポポ、サンザシや、より見つけにくいオトギリソウ、ノコギリソウ、その他もろもろの薬草がソ連全国の薬局で買い取られていた。

 「私たちの薬局は年齢や回収場所を尋ねることなく薬草を買い取ってくれた。五、六歳の子供からも、五、六十歳の大人からも集めていた。その場で包みの重さを量って金をくれた」と「zlatka」というニックネームの女性は回想している。「袋いっぱいのオオバコは11コペイカで買い取ってくれたが、これは甘いショートブレッドケーキ一つ分の値段だった。袋いっぱい集めるのにかかった時間は30分ほどだった」。薬草集めは少年も少女も行ったが、少年には他の稼ぎ方もあった。肉体労働だ。

 

肉体労働:荷物の積み降ろし、芝刈りなど 

 「私は最初の小遣いを友達と一緒に新居への引っ越しの手伝いをして稼いだ。もちろん誰も私たちに大きな家具は任せなかった。しかしいろいろな椅子や寝室用サイドテーブル、かばん、箱は私たちの仕事だった。新しい住宅にまだエレベーターがないことも多かったから、新居者はできるだけ労力を省こうとしていた。それが私たちにはありがたいことだった。私たちは1時間以下の仕事で1ルーブルを受け取った」と「Adumus」さんは回想する。

 時々、ソ連の少年が夏の小遣い稼ぎを探していると、ずいぶん風変わりな仕事が見つかることがあった。「1980年代半ば、私は14歳で、私と仲間は町のあらゆる事務所に行った。『十代が夏にできる仕事はありませんか』。すると私たちは森に送られ、空き地沿いの低木を刈るのを任された。朝20人ほどが集まり、トラックに乗せられ(座席もシートベルトもない荷台に。今では考えられないことだ)、女性作業長とともに森に連れて行かれた。そこで斧を使って低木を刈り、そして戻るのだった。数週間で私は40ルーブル稼いだ。ファスナー付きの粋な新しいスキー靴を買ったのを覚えている」と別のインターネットユーザーは回想している。

 列車やトラックからのスイカやリンゴ、ポテトの荷降ろし。箱の釘打ちやタイヤ店でのタイヤやホイール運びの手伝い。自動車整備場での洗車。田舎での干し草の積み降ろしや羊番の手伝い、ソ連の集団農場の作業班への参加(休みに田舎に来る者でもできた)。これらはすべて公式には違法だったが、人手不足はソ連ではよく起こり、子供がそれを補う労働力として働いて数ルーブルを小遣いにもらっていた。

 

古紙回収 

 リサイクル用の古紙回収は紙不足が始まった1974年から行われていたソ連の全国的な活動だった。紙のリサイクルを促す広告がソ連の多くの本の表紙裏に掲載されていた。古紙を回収センターまで持ち込むよう促すものだ。「紙のリサイクルは木の保護だ」というのが活動の標語だった。儲けの点ではどうだったのだろうか。

 20キログラムの紙を出せば、アーサー・コナン・ドイルやアレクサンドル・デュマ、ジャック・ロンドン、ジュール・ヴェルヌ、トーマス・メイン・リードなど珍しい本と交換できるクーポンをもらえた。こうした本は本屋では手に入らず、専門店を通して配られていた。儲け方はこうだ。たくさんの古紙をリサイクルに出し、クーポンを受け取って本に交換する。そしてこっそり売る。なぜ「こっそり」かと言えば、違法だったからだ。もちろん違法行為ほど儲けは良い。ただしかなり危険だった。

 

「ファルツォフカ」:闇取引

 きちんとした服装の少年や地味な少女はソ連の犯罪者を探す民警の疑いの対象にはまずならなかった。その無垢な外見を利用して、学童が外国人と取引することがあった。珍しく外国人と出会える可能性のある場所でだ。モスクワ北東部にある広大な公園ヴェー・デー・エヌ・ハー(国民経済達成博覧会)はその一つだった。またコスモスホテルには外国のスポーツ選手の代表団が宿泊することがあった。

 子供はレーニンの肖像のある数十個の安いバッジを包んでヴェー・デー・エヌ・ハーに行き、これを外国のタバコや風船ガムなど、とにかく後で売れるものと交換してもらっていた。

 アルバート通りも外国人と出会える場所だった。「ArizonaHills」さんは回想する。「1990年代初め。私は17歳頃で、アルバート通りで『コマンジールスキエ』の時計を一つ25ドルで売っていた。だが『コマンジールスキエ』は非売品で、軍で支給されるものだった。父はソ連軍顧問で、将校として私のためにこの時計を手に入れることができた」。

 1990年代前半、腕時計「コマンジールスキエ」は30〜40ルーブルで、当時1ドルはおよそ120ルーブルだったから、この人はかなりの儲けを得ていたことになる。またキャメルやマールボロといった外国ブランドの高価なタバコは12〜−5ルーブルだった。しかしこれはもう「大人」の問題だった。ソ連では違法売買は犯罪で、子供は14歳(労働が許可される年齢と同じ)からすでに罪に問われた。したがって時計やバッジを売れば刑務所に入れられる可能性があった。しかし豊かな暮らしを少しでも味わいたいという欲望は時にあまりにも強いのだった。