365人の乗客を乗せた航空機は、爆発が起きた後、いかにして着陸したのか?

歴史
エカテリーナ・シネリシチコワ
 1991年3月18日の深夜、ソ連最大の航空機の機内で爆弾が炸裂した。しかし、その後、航空機は一人の犠牲者も出さずに着陸することに成功した。わずか1秒の差で悲劇を免れることができたのである。

 それは日曜日の夜だった。エヴゲーニー・ヴォロジン(26)はヴヌコヴォ空港から飛び立つ飛行機の中にいた。ノヴォクズネツク出身のヴォロジンは地元の家具工場の職人であった。ヴォロジンは、硝酸塩の入った瓶6本をバッグの中に忍ばせていた。瓶は2本ずつガムテープで巻かれていたという。しかしバッグの中に何が入っているのかについて、誰にもチェックされることはなかった。1991年3月17日、ソ連では、ソ連邦存続の是非を問う国民投票が行われたばかりであった。

 モスクワとノヴォシビルスクをつなぐ定期便には空席はほとんどなかった。乗り込んだ365人の乗客のうち、20人が乳児を連れていた。2時間の飛行は予定通り行われていた。ヴォロジンが座席から立ち上がるまでは。ヴォロジンは機内の通路に人がいなくなるのを待っていた。キャビンアテンダントが食事や飲み物を運んだり、ゴミを集めたりして、常に混んでいたのである。しかし彼は我慢できなくなった。立ち上がると、操縦室にもっとも近いトイレに向かった。そのバッグを持って。

 

ドアへの衝撃

 「離陸から2時間後、機内にいた全員が、ドアに大きな衝撃があったのを感じました」と回想するのは、副操縦士としてその航空機に乗り込んでいたユーリー・スィトニク。

 しかし、そのドアへの衝撃は爆発だった。ヴォロジンは1分ほどトイレにいた後、ドアを開け、可燃性混合物で出来た2つの爆弾を通路に向かって投げたのである。3つ目は投げることができなかった。ドアの周囲はすでに燃え上がり、ヴォロジンはトイレに閉じ込められた。

 操縦教官は、何が起こったのか理解できず、フライトエンジニアに「誰が中にいるか見てきてくれ」と言った。ドアを開けると、機内には火の手が上がっていた。「すっかり炎に包まれていました。髪や眉は燃え、露出している部分はすべて火傷していました。フライトエンジニアがすぐにドアを閉めたのは不幸中の幸いでした」とスィトニクは語っている。

 機内はカオス状態となっていた。人々はパニックに陥り、出口へと駆け出し、非常口を開けようとしていた。あるいは火の手から出来るだけ離れた後部座席の方に向かう人もおり、飛行機はバランスを失いかけていた。しかし、乗客はまもなく立っていられなくなった。

 「火災発生と同様、操縦士のエクザルホはすぐに反応し、緊急降下体制に入りました。航空機は秒速70〜80メートルで急降下し、その状態は宇宙空間のように無重力でした」とスィトニクは語る。

 硝酸を含んだ煙は操縦室にも充満し、操縦士は意識を失い始めた。ユーリー・スィトニクは、タイミングよく酸素マスクをつけることができた。そして最寄りの空港を探し始めた。

 「わたしは無線で呼びかけました。『聞こえますか?!こちら航空機86082。セロフ市から160キロを飛行中。機内が燃え、墜落しています!』と。機器の示す数字は煙でほとんど見えませんでした。眼下にはウラル山脈が見えていて、高度を2,700メートルより下げるのは危険でした」。

 しかし、まもなく、別の問題が明らかになった。
 

コントロールされた落下

 火災は20分後に消火された。消火にあたったのは機長のヤコフ・シラゲ、キャビンアテンダント、そして2人の乗客―1人は検察官、そしてもう1人はそれまでに2度アフガニスタンで戦火に巻き込まれた戦車部隊の隊員であった。2人とも両手に骨に達するほどの火傷を負った。消火には14本の消化器が使われたが、なんとか、航空機の機材に繋がれていた配線が燃えるのを防ぐことができた。

 このとき、操縦士のアナトーリー・エクザルホは意識を取り戻していたが、体調は悪かった。しかし、それでも航空機をスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)にある「コリツォヴォ」空港へ方向転換することができた。少しずつ煙も薄れ、乗員たちは機器を確認することができるようになった。しかし乗員たちは別の問題に直面することになる。滑走路が見えなかったのである。

 管制塔からは「距離8キロ、高さ400メートル。滑走路は見えるか?」と連絡があった。

 「見えない」と乗員らは答えた。

 スィトニクは語る。「わたしの腕が偶然か何かの拍子で操縦室のガラスに当たったのです。ガラスはかなりの煤と、指半分くらいの長さの針のようなもので覆われていて、外からの光を遮断していたのです」。数秒後、操縦士らは小皿ほどの大きさの穴を開け、夜中、空港まであと6キロというところで、滑走路の灯りを確認した。1分遅ければ、急降下が墜落に変わっていたときであった。

 

それはテロ事件だった 

 飛行機は着陸し、空港からやや離れた位置に移動し、機体後部のドアが開け放たれた。タラップが降ろされ、特務機関のチームが航空機内に突入した。

 スィトニクは回想する。「煙発生器を使ってテロリストとトイレから追い出すと、大変な事態になりました。特務機関の将校が銃を上に向けて発射し、その後、銃をテロリストの口に入れ(おそらく歯が折れたようでした)、叫んだのです。『このろくでなしが!飛行機には妹が乗っていたんだぞ。ズタズタに引き裂いてやる!』と。そしてその後、急に優しい口調になって、『誰に言われてやったのか言え』と言いました」。そばにはレコーダーを手にした別の将校がいたという。

 後に、スィトニクは、ヴォロジンはハイジャックを計画していた訳でも、何か要求をしたかった訳でもなかったと語っている。つまりこれは、乗客乗員すべてを殺害するという唯一の目的を持ったテロ攻撃だったのである。スィトニクは、「裁判の準備が進められていたとき、KGBが、ヴォロジンはナゴルノ・カラバフに注目を集めようとしたアルメニアの民族主義者に感化されていたと説明してくれました。影響を受けやすい人物だったのでしょう。しかしいずれにせよ、彼は極刑ではなく、精神病院送りとなりました」と話している。

 尋問で、ヴォロジンは、1年半にわたって、空港の検問システムと搭乗手続きを調べたと告白した。最大の旅客機イリューシン86(2010年に引退)を選び、荷物チェックで検出されないよう、金属を含まない爆発物を作った。当時、ソ連の空港には手荷物の保安検査システムがなく、銃器の持ち込みをチェックするための金属探知機が据え付けられているだけであった。バッグの中にボトルが入っていても誰も気にしなかったのである。

 彼は機内3ヶ所で爆発物を炸裂させる計画であった。もしそうなっていれば、飛行機が着陸するチャンスはまったくなかっただろう。航空機には、乗員乗客合わせて382人が乗っていた。しかし、通路の混雑とヴォロジンの短気が、状況を変え、彼は1ヶ所のみで爆発させることにした。このような偶然の重なりと乗員たちの正確な行動が、悲劇を回避することになったのである。その夜、深刻な怪我をした乗客は1人もいなかった。

 後に、ユーリー・スィトニクは、KGBから、ヴォロジンの情報によって、サンクトペテルブルク、カリーニングラード、その他の都市での類似のテロを複数件、未然に防ぐことができたと聞いたという。

 「それからは実にさまざまなことがありました。わたしは『個人勇敢勲章』を受け取りました(乗員全員に授与された)。夜中、明かりのないバグダッドの空港に、同じくらい恐怖を感じていた政治家やジャーナリストを載せて降り立ったこともあります。シリアから戻るときに、わたしの操縦する飛行機がトルコ上空で米国の爆撃機に撃たれそうになったこともあります。しかし1991年3月18日の夜に経験したような出来事はそれ以降一度もありません。おそらくあの事件がわたしをよりよい方向に導いてくれたのでしょう」。