ソ連が行った軍用イルカの訓練

歴史
エカテリーナ・シネリシチコワ
 ソ連中の人々が、このガリーナ・シュレポワという女性を映画の中で見た。彼女はスタントマンとして、映画の中で「水に沈んでいた」のである。しかし、このかわいらしい少女が秘密の課題を与えられ、軍事作戦のためにイルカを調教していたことは、誰も知らなかった。

 湾岸にバンドウイルカの入った檻がある。イルカは、生まれつきのソーナー能力で、檻の中にいながら、半径500㍍の水中の物体を認識することができる。イルカがここにいるのはそのためである。

 イルカは泳いでいる人を発見すると、特別なペダルを踏む。すると空中に警砲が打ち上げられる。そして鼻で「客人」を発見した場所を指し、別のペダルを踏むと、檻が開き、イルカは目標に向かって急発進し、無害化するのである。

 これが軍用イルカの典型的な「活動」パターンである。その多くのことをイルカに教えたのは、ガリーナ・シュレポワというゲシュタポの女性囚人で、将校の娘であった。

囚われの身となった子ども 

 第二次世界大戦が勃発したのはシュレポワが3歳のときであった。「わたしたちはリトアニアの国境に住んでいました。ドイツは開戦の半時間後にヴィリカヴィシキセに侵攻しました。そして爆弾がわたしたちの家を襲いました」とシュレポワは回想している

 特別対外諜報部局の局長だった彼女の父親は、襲われ、意識を失った状態で、共産党幹部とともに前線に送られた。ガリーナは1歳半の妹と母親とともに残された。しかし、誰かが、彼らはソ連将校の家族だとドイツ軍に密告した。母親はすぐにドイツの収容所に送られたが、2人の少女は、もっとも健康な人材として、支援組織「プフラウメ」のメンバーに組み入れられ、負傷したドイツ兵に輸血をさせられた。

 終戦後、2人は孤児院に送られ、そこで肉体的、精神的虐待を受けることになる。ガリーナはその時のことについて、「あるとき、わたしはマーガリンの包み紙をなめ、女友達にあげたことから、ドイツ人の院長に暴力をふるわれ、腕を折られました」と話している。

 彼女の父と母(母親は収容所で生き延びた)は、ドイツ側から、「2人の娘はプフラウメに入ったあと、ガス室送りになり、焼かれた」と言われていたが、この間ずっと2人の娘を探し続けた。そしてその8年後、夫妻は、ドイツから連れ帰ってきた子どもたちのリストの中に、シュレポフ夫妻の2人の娘と同じ誕生日の2人の女の子を見つけた。子どもたちは、名前を変えられ、ロシア語も忘れていたが、この2人が娘であることに疑いはなかった。 

ブロックバスター女優

 ガリーナは小学校を卒業した後、レニングラード体育大学に進学し、そこでマリンスポーツにのめり込むようになった。そしてトレーニングを開始した1年後、彼女は潜水泳法のソ連チャンピオンになった。

 ある大会に映画の撮影クルーのキャスト係が来ていた。1961年に制作された映画「両棲人間」でスタントマンができる女性アスリートを探していたのである。これはスターリン後のソ連における初のブロックバスター映画であった。ガリーナはそのプロフェショナリズムと美貌で、この役に抜擢された。のちにこの映画はソ連の大ヒット作品となる。

 ちなみに、シュレポワは女優としてのキャリアを伸ばそうとは思わなかった。レニングラードでアパートや仕事を用意してあげるという申し出を断り、 6,000㌔離れたサハリンに移住し、初の潜水泳法のサークルを作り、イルカの産業に関するドキュメンタリー映画にも出演し、そこでイルカがいかに酷い扱いを受け、家畜の餌となる魚粉にされるのかを目の当たりにすることになるのである。

 1967年、ドアのベルが鳴った。「ドアを開けると、玄関に身長2㍍ほどの船乗りが立っていました。そして、セヴァストーポリにある海軍イルカ研究センターでの職に就くようにとのことで、明日迎えに来ますと言うのです」と彼女は回想する。 

 シュレポワは幼い息子と三輪車と小さなスーツケースを持って、兵士たちとともにカザチヤ湾に向かった。

連日、水の中に

 軍は海の生物についての知識を持ち、水中での作業を手伝うことができ、体力がある人物を探していた。1960年代の末までに米国はすでに長期間にわたり、海中生物の能力を軍事的な課題の遂行に用いるための研究を行っていたが、ソ連ではまだこの分野の研究は進んでいなかった。研究基地もなく、またどのようにこれに取り組むべきか誰も知らなかった。シュレポワも最初はそうであった。

 シュレポワは毎日、水に入りながら、何から始めるべきか思案していた。「わたしはイルカを観察し、彼らはわたしを観察しました。わたしの体重は45㌔にまで減っていました。あるとき、たまたま邪魔な海藻を脇に避けると、イルカがわたしの動きを目で追っていました。もう一度、やってみると、イルカはやはりそれを目で追いました。その反応を固定させるため、わたしがイルカに魚をやると、イルカは海藻をわたしの方に押してきました。そこでまた食べ物を与えました。こうして動きを習得させていったのです」。

 その後、別のものも試してみることとなった。ハンカチ、ボールなどである。イルカは犬のように、調教師が投げたものを拾ってくるという技を身につけた。またジェスチャーも覚え、人間の言葉に反応した。

破壊工作者を「殲滅」することを教えた 

 ガリーナは2年間、子どもとともに湾岸に作られた2人用のテントで、厳しい軍事訓練と同様の条件下で暮らした。「24時間監視され、常にイルカのそばにいなければなりませんでした。自由な時間が1分でもできるとすぐに横になり、イルカを眺めていると、イルカもわたしが何をしているのか観察し、わたしの興味をひき、魚を欲しがるそぶりをみせました」。

 ガリーナ・シュレポワは、初の女性潜水夫として海軍の一員に組み入れられた。しかし、彼女の活動は機密事項であった。1967年、カザチヤ湾に、ソ連初の水族館が作られ、50頭のバンドウイルカが迎えられた。1970年代になると、活動には数十の学術研究所が加わった。「警備、地元のパトロール、破壊工作者の殲滅、水中の兵器の捜索と発見など、いくつかの分野で、イルカとアザラシの訓練が行われました」とセヴァストーポリ水族館の主任軍事調教師、ウラジーミル・ペトルシンは語っている

 破壊工作者の殲滅というのは、イルカが泳いでいる人のアクアラングを外し、水面まで押し上げてくるというものであった。長い期間、研究者たちはイルカに人間を殺させようとしていたが、発達した生物であるイルカはそのようなストレスにあまりに感情的に反応し、ナイフや麻痺させる針を使った攻撃の後、それに続く作戦を実施しなくなった。シュレポワは、「イルカは考え、話し、愛し、苦しむことができるのです。イルカは40歳まで生き、肺炎や心臓発作で亡くなります」と話している。

 シュレポワは優れた結果を出した。彼女のイルカの調教法はいまでも使われている。シュレポワは40年間、軍事水族館で働いた。彼女が作ったショー・プログラムを見るために、アーティストや俳優、宇宙飛行士、そして有名な政治家たちがここを訪れた。この仕事のために彼女は健康を害した。定年退職したとき、彼女は足に人工関節を入れ、松葉杖を使わなければ歩けなくなっていた。シュレポワは2017年、78歳でこの世を去った。

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