密かにロシア人女性と結婚したシャムの王子

 20世紀初頭に出会った2人は、当時の社会通念では一緒になれなかった。しかし、彼らの禁断の恋は、すべてではないにせよ、ほとんどの試練を乗り越えた。

 この恋物語はまるでおとぎ話だ。東方の国の王子が慎ましやかな孤児の少女に出会い、一目惚れした。彼は数世紀続く伝統を破って彼女と結婚し、父王の怒りを恐れず、彼女を自分の国に連れ帰った。

ペテルブルクのシャム王子

 このラブロマンスには、最後のロシア皇帝ニコライ2世も無関係ではなかった。皇太子時代の1890年代、彼は東方の国々を周遊し(ちなみに日本で暗殺されかけた)、その際にシャム、すなわち現在のタイ王国も訪れた。

ラーマ5世とニコライ2世、1897年

 1897年、シャムの王は皇帝となったニコライのもとを答礼訪問した。君主らは両国間の国交を公式に樹立し、ニコライはラマ王に王子の一人をロシアに留学させてはどうかと提案した。こうして翌年、王は可愛がっていた次男チャクラポン王子をペテルブルクに送り出した。彼は英国留学の経験があり、ロシア語も少し知っていた。ニコライ2世は王子の学費を負担して彼を貴族の子弟が学ぶ帝立陸軍幼年学校に入れ、冬宮に住まわせた。

チャクラポン王子

 チャクラポン王子は熱心に学び、優れた軍事教育を受けた。1901年には幼年学校を卒業して軽騎兵連隊に入った。若き王子は学業の息抜きも忘れず、トランプ遊びや飲酒を覚えた。やがて彼はトランプや酒、女遊びにも飽き、ロシア人の友人の誘いでその親戚の女性宅に通い始めた。大佐の未亡人だったこの貴族女性は、しばしばパーティーを開いて若い知識人らを集めていた。ある時、退屈していたチャクラポンはそこで赤毛のエカテリーナ・デスニツカヤと出会い、彼女のことが忘れられなくなった。

大胆なロシアの娘

 エカテリーナはキエフで育ったが、16歳の時に母親を失くして孤児となった。父親は彼女が2歳の時に死去したため、彼の記憶は全くなかった。父親は独力で立身出世した人物だった。教育を受け、法律家として法廷で働き、晩年にはかなりの地位に就いてキエフ地方裁判所に勤め、貴族の階級も手に入れた。2度結婚しており、最初の結婚で5人の子供を設けていた。後妻も前夫との間に設けた2人の子を連れており、再婚でエカテリーナの他に息子のイワンを生んだ。

エカテリーナ・デスニツカヤ

 イワンはペテルブルク大学に進学した。1903年に母親が死去すると、エカテリーナはキエフから首都の兄のもとに引っ越し、看護学校を卒業した。看護婦は第一次世界大戦の時に活躍することになるが、それはまだ先のことで、女子が看護に携わるのは当時珍しいことだった。彼女がシャムの王子と出会ったのは、まさに日露戦争で看護師として従軍しようとしていた時だった。彼は彼女の身を案じたが、彼女が戻って来るまで待った。

秘密の結婚

 この驚くべき物語の詳細は、王子とエカテリーナの孫ナリサ・チャクラポンが叔母で作家のアイリーン・ハンターと共に執筆した本『カーチャとシャム王子』(原題:Katya & the Prince of Siam)で知ることができる。彼女らは家族の記録やエカテリーナとチャクラポンの手紙や日記を調べ、彼らのロマンスを世界に発信した。

『カーチャとシャム王子』

 エカテリーナが戦争から戻ると、チャクラポンは辛抱強く彼女にアタックし、恋愛を成就させた。彼は家族の反対を承知して結婚を決意した。シャムの王家が白人女性を受け入れるはずはなかった。

 王子はニコライ2世にも自分の意図を伝えていなかった。皇帝が乙女を国外に出さないことを恐れたのだ。「そのため彼らは自分たちだけでこっそりとロシアを出た」と孫のナリサ・チャクラポンは話している

 エカテリーナは兄に宛ててこう綴っている。「これ以上に互いを愛し、理解し、尊敬することはできない」。兄は結婚を祝福したが、チャクラポンにキリスト教の慣習に沿って結婚することを約束させた。王子は婚約者を連れてコンスタンチノープルに行き、そこで正教会に改宗して婚礼を挙げた。

閉じ込められた姫

 チャクラポンの妻は当然シャム王家に受け入れられなかった。外遊の際もエカテリーナはレセプションやパーティーで望ましくない人物とされていた。夫婦がロシアに来た時も、ニコライ2世はチャクラポンとは会ったが、エカテリーナは呼ばなかった。

 シャムでチャクラポンは精力的に父王を助け、ロシアで学んだ軍事に関して助言を行った(ロシア風の軍の改革も行った)。ロシア人の妻は基本的に宮殿に閉じ込められていた。王族のそばはおろか、どこにいることも望まれなかったからだ。しかしエカテリーナはめげなかった。家の調度品を整え、家事をし、熱心にタイ語を覚えた。これが彼女が家庭に入る唯一の道だった。結局王妃に王子の妃の資質に問題がないという報告が上がり、王妃はチャクラポンに対してロシア人の妻にシャム風の服装をさせるよう言い、自らエカテリーナのもとを訪れた。

エカテリーナ、チャクラポン王子と息子チュラ

 王が初めてエカテリーナと面会したのは、彼女とチャクラポンの息子チュラが2歳の時だった。間もなく王は崩御し、チャクラポンの兄が即位した。この時初めて王子と外国人女性の結婚が認められ、エカテリーナは公妃の称号を得た。

 第一次世界大戦中、チャクラポンはいっそう軍事にのめり込み、エカテリーナは故国の行く末を案じていた。1917年にロシアから革命や内戦の不穏な報せが来た時はなおさらだった。夫婦関係はこじれ、正妻しか持たなかったチャクラポンもシャムの伝統に従って側室を持つことを決めた。エカテリーナはこのような辱めに耐えられなかった。彼女は離婚を要求し、内戦中に兄のイワンが亡命した中国に去った。1920年、チャクラポンは風邪が重篤化して再婚を果たすことなく世を去った。

ロシア人の妃とシャム人の王子の子孫

 中国でエカテリーナは米国人と結婚し、2人でパリに移住した。息子のチュラはシャムの王家に残って育てられた。後に彼は父親と同じく英国に留学する。彼も父親と同じく家族の意に反して英国人エリザベス・ハンターと結婚した。オートバイ競技に没頭し、英国に残って歴史家となり、シャム王国のチャクリ朝(現在もタイを治めている)に関する本を何冊か執筆している。

チュラと妻エリザベス・ハンター、1952年

 彼らの娘のナリサはバンコクとロンドンで暮らしている。多くの時間をタイ王家と過ごし、タイ語と英語を自由に操る。ロシア語は完全には習得しておらず、動詞の活用や名詞の格変化に苦しんでいるという。とはいえ、ロシアをたくさん旅行し、有名なシベリア鉄道にも乗って添乗員とトルストイやドストエフスキーについて議論したそうだ。

 ロシア人の祖母とは幼い頃に一度会っただけだという。ナリサの息子のヒューゴは有名なミュージシャンになっている。

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