ソビエト時代、一般人が「鉄のカーテン」を越えることはほとんど不可能だった。ボリショイ劇場の芸術家、アスリート、作家、そしてもちろん、党幹部は例外だった。フルシチョフによる「雪解け」が始まると、モデルは軽工業の代表の仲間入りを果たした。
ソビエト連邦において、ファッション産業は実際には存在しなかった。首都のドム・モデェレィがデザインした衣料品は販売されていなかった。その服は国際的な展覧会や党幹部の妻や娘の洋服ダンスに入ることになった。しかし、ソビエト連邦のデザイナーの服が海外の人を感心させることがめったになかったとしても、ソビエトの女性はそうではなかった。外国のファッションデザイナーや写真家の心に残った最も美しい女性たちは海外へ行ったのだ。その中で最も有名なモデルについて話そう。
レジナ・ズバルスカヤ
西側で「クレムリンの最も美しい武器」、「ソビエト連邦のソフィア・ローレン」と呼ばれた彼女は、1960年代にその人気のピークを迎えた。最も有名なソビエト連邦のモデルの一人だった彼女は、モスクワで唯一のファッションハウスの掃除係としてスタートし、そこで注目されるようになった。ソビエト連邦の代表の一人として、貿易と産業の博覧会でパリへ行ったときに、彼女のキャリアは急上昇した。
キャリアの成功とともに、祖国における彼女の特権も増大した。厳格な指示に反して、海外旅行中にその町を離れることを許可された唯一のモデルであったことが知られている。彼女の所持品は税関検査を受けることはなかった。噂では、ズバルスカヤは実際にはソ連の諜報員だったと言われている。
後で判明したように、内輪での、外交官との自由奔放なパーティーに定期的に来るゲストは熱心な反ソビエトの人だった。これは、離婚後の彼女の元夫である芸術家のレフ・ズバルスキーによって書かれた彼女についての本(彼女の人生の赤裸々な部分について言及し、彼女の露出した写真を掲載した)で語られた。これら全てのことがこのモデルを大きな政治スキャンダルに引きずり込み、精神を揺さぶったのだ。彼女は精神科クリニックで自殺した。そのとき52歳だった。
ミラ・ロマノフスカヤ
彼女はズバルスカヤの完全な正反対のライバルだった。彼女たちのライバル関係は、1967年にモントリオールで開催されたショーでクライマックスを迎えた。後の美術史家によって「ロシア」と呼ばれ、ファッションの教科書に掲載されることになった、ショーのハイライトで登場したファッションデザイナーのタチヤナ・オシメルキナのスカーレットのドレスは、当初ズバルスカヤのために縫製されていた。しかし、金髪のロマノフスカヤの方が、見た目が良いことがわかりこれを着ることになった。このドレスを着て、彼女は後にアメリカの雑誌『Look』の表紙を飾った。これはソビエト連邦のモデルとしては珍しいことだ。
ロマノフスカヤは、ショーの前に病気になった友人の代わりとして、偶然ランウェイに立つことになったのだ。しかし、彼女はファッションデザイナーに気に入られ、契約を結ぶことになった。
ガリーナ・ミロフスカヤ
彼女は西側で非常に人気があった。海外の雑誌に登場した最初のモデルとなり、あの有名なツィギーにたとえられた。しかし、ソビエト連邦では、それほどの人気はなかった。ガリーナ・ミロフスカヤのスキャンダルが暴かれた。彼女は、例えば、水着での撮影を行ったため、それが不道徳であるという理由で専門学校をやめなければならなかった。
2年間にわたり、雑誌『ヴォーグ』はこのモデルの写真を撮ることの許可を求め、結局、王しゃくを持って赤の広場とクレムリンの武器庫で撮影が行われた。この写真の一枚は、ミロフスカヤがパンツを着て足を広げて広場の石畳の上に座っており、背景には共産主義の由緒ある指導者であるレーニン廟が見える。この写真は卑猥とされた。
その結果、1974年、ミロフスカヤは祖国を離れ、もう帰国しないように求められた。彼女は移住を何度も経験したが、彼女はローマで成功し、キャリアを続け、知り合って15分後の銀行家と結婚した。
タチヤナ・ソロヴィヨワ
ソロヴィヨワは英語の教師として働くつもりだったが、それを拒否された。「彼らはたった一つの理由だけで私を拒否しました。私の容姿が好きではなかったのです。私は長い髪をしていて、短いスカートを履いていました。そして首脳陣は彼らの部下がそのような格好をしないように決めました」と彼女は回想した。
それから、ソロヴィヨワは彼女のすばらしい見た目が喜ばれたモデル界に行った。1970年代、彼女のモデルとしての活動はまだ知られてはいなかった。この女性が有名な監督であるニキータ・ミハルコフと結婚したとき、彼は彼女を教師としてだけ紹介した。自分の妻がファッションモデルであることを恥ずかしかったからだ。結婚式の後のしばらくの間は、彼女はまだランウェイを歩いていたが、夫の最後通告で彼女はこの業界から離れることになった。
エレナ・メテルキナ
彼女は1970年代にソビエトファッション界と映画界のスターになった。学校を卒業した後、メテルキナはモスクワの主要な百貨店である「グム」のモデルとして働き始めた。服を撮影した彼女の写真がプロデューサーの手に渡り、この女性はソビエト連邦で大成功を収めた映画『茨から星へ』(2,000万人が視聴した)に出演することになった。映画出演の経験はなかったが、メテルキナはその作品中でエイリアンのニーユを演じた。
このような成功にもかかわらず、彼女はグムに戻り、そこでさらに20年間働いた。 1990年代、彼女は後に暗殺される実業家イヴァン・キヴェリディの秘書として働いた。彼は受話器に付けられた有毒物質で毒殺された。メテルキナは生き残ったが、その後、彼女は信仰に専念するようになった。
レカ・ミロノワ
他の大部分のソビエト連邦のモデルと同様に、彼女は偶然この業界に入ることになった。彼女はショーで友人のサポートするようになり、注目された。 彼女はファッションデザイナーのビャチェスラフ・ザイツェフのモデルとなったが、他のモデルとは異なり、ミロノワは貴族出身のために海外旅行を許可されていなかった。しかし、オードリー・ヘップバーンと比較されるなど、彼女は海外で知られていた。
ミロノワは、影響力のある人々から受けた嫌がらせについて公に話した最初のモデルの一人だった。1960年代後半、これが原因で仕事ができなくなってしまった。彼女は自分や家族が被害を受けることを恐れて、名前を明かすことはなかった。
タチヤナ・チャプィギナ
チャプィキナは1970年代後半にランウェイで輝いた。また、彼女がファッション・デザイナーであるビャチェスラフ・ザイツェフの招待でファッションハウスにやってきたのは、医療でのキャリアが彼女のためにならないと判断した、モデルとしてはかなり遅い23歳のことだった。彼女はモデルハウスで12時間のリハーサルをしていたので、2年後、彼女の努力が認められ、海外へ行くことになった。彼女はアメリカ、メキシコ、日本に招待された。
ソビエト連邦では、全ての主婦がチャプィギナの顔を知っていた。このモデルが裁縫雑誌で服を宣伝していたからだ。彼女が結婚したのは37歳のことであり、自由意志で始めたキャリアをここで正式に終えた。しかし、これまでチャピギナは定期的に雑誌掲載され、レトロなファッションショーにも参加している。