少し上の世代の人々の中には、郷愁とともに、職場で配られたサナトリウムや休暇の家で過ごす無料の旅行券のことを思い出す人もいるだろう。サナトリウムでの休暇では、時間通りの健康的な食事、エクスカーション、そして夜にはディスコも楽しめた。あるいは、親戚を訪ねて田舎に行けるだけでもなんてありがたいことだと考え、海など夢にさえ見ることができなかった人もいる。川で泳ぎ、魚を釣り、畑を耕すのが唯一、自分たちに許された楽しみであったという人もいる。実際には、ごく普通のソ連市民にとっての休暇とはどのようなものだったのだろうか?
休暇にはいくら支払われていたのか?
そもそもロシアに休暇という概念が現れたのは1918年のことである。1967年までは12労働日、その後は15日の休暇があるだけだった(現在は28日あるいは20労働日)。しかしより長い休みを取れる人もいた。たとえば極北で働いている人は45労働日、学術研究所に勤務している人は24~48労働日、また有害な製造現場で働く人は追加の36労働日の休みを取ることができた。休暇に入る前に、職場からいわゆる「休暇手当て」とその月に働いた分の日割りの給料をもらうことができた。2~3週間分の「休暇手当て」はだいたい1ヶ月分の給料に相当する場合が多かった。当然ながら、ほとんどの人は夏に休暇を取るのを好んだ。この休暇に何をすることができたのだろうか?
やった!旅行券が手に入る!
事実、ソ連時代、ロシア全土には多数のサナトリウムがあり、人々はそこで休暇を取り、治療をした。1970年代、クラスノダール地方、クリミア、アプハジア、バイカル、アルタイなどには1,000を超えるサナトリウムがあった。
こうしたサナトリウムを訪れる人々はあらゆる検査や健康診断を受け、特別な食事が指定され、夜には娯楽プログラムで楽しい時を過ごした。実質、これはソ連式オールインクルーシヴと言えるだろう。なぜならリゾート地では一切、お金を使わずに休暇を過ごすことができたからである。
3週間の旅行券はサナトリウムによっても異なるが、料金はだいたい160~220ルーブルであった(当時の平均月収は170ルーブル)。治療は含まれない「休暇の家」だと40ルーブルであった。しかし誰もが全額支払っていたわけではない。一般的には労働者が支払うのは料金の1/3、年金受給者や退役軍人、シングルマザーなどは無料で旅行券を受け取ることができた。
「わたしは1986年の9月に、父とともに、労働組合からの旅行券を利用し、アナパにあるエジェニ・コットン記念ペンションを訪れました。7年生になったばかりのころのことです。旅行券はソ連のある種のオールインクルーシヴで、4ベッドルームのうちの2つのベッドが与えられ、1日4回の食事がついていて、到着後すぐの健康診断によりさまざまな治療や療養を受けることができました」とベン・エリマンさんは、サイトの掲示板で子供時代の思い出を綴っている。「部屋にトイレがあったかどうかは記憶が定かではないのですが、バスルームやシャワーがなかったのは確かです。ペンションの共同バーニャ(サウナ)で皆で風呂に入りました。料理は非常においしく、しかもいつでもメニューを選ぶことができました。わたしが記憶している限り、ペンションの建物は海のすぐ近くにあり、ビーチで場所を取るのにも問題はありませんでした」。
ただ、そのような場所に行くこと自体が難しかった。とりわけソチやヤルタのサナトリウムは誰もが簡単に行ける場所ではなかった。それぞれの企業に決まった数の旅行券が振り分けられており、それを希望する人は順番を待たなければならなかった。そこで夏に一般の職員がその旅行券を受け取ろうと思うと数年は待つことになった。ちなみに休暇先では数人が同じ部屋で宿泊したため、誰と同室になるか予想することはできなかった。現在は、多くのサナトリウムがホテル風に建て替えられており、もちろん料金も「資本主義的」なものになっている。
自力で南方へ
列車あるいは飛行機のチケットを買うことができれば自力でどこかへ行くこともできた。もっとも人気のある行き先はクリミア南岸(アルシタ、ヤルタ)、ソチ、アナパ、アプハジアであった。
休暇先に着くとどこで地元住民のところで住まいを探した。かつては今のように多くのホステルやホテルがなかったため、宿泊施設も比較的安かった。クリミアで1つのベッドを借りるのに、たとえば1970年代だと1泊1~3ルーブル支払えばよかった。家族で旅行する場合は、1室丸ごと借りたが、1人で出かけた人たちは知らない人数人と一緒に寝泊まりすることになった。
一方、サンクトペテルブルクのディアナさんはこう話す。「黒海があるセヴァストーポリには叔母と2度行きました。ホテルも取らずに行く旅で、行きも帰りも開放寝台車で(叔母は教師、母は技師、プラス軍人として死亡した父親の年金を受給していた)移動しました。ユルマラには母と行ったのですが、それもホテルの予約などせずに出かけました。ペテルブルグ市民は部屋を借りるのは簡単でした。文化的な人間だと思われていたからです。部屋のオーナーはレニングラードの列車を出迎えにきてくれたものです」。ユルマラの部屋は1泊7ルーブルだったという。
自家用車を持っている場合(実際、これは非常に稀なケースではあった)は、自動車を使った旅行ができた。ジグリやヴォルガにテントやキャンプ用の鍋、2週間分の食料を積み込み、家族全員で南へ向かった。
モスクワ出身で現在はプラハ在住のエレーナさんはこんな風に書き込んでいる。「ホテルを取らずに旅行するときにはできるだけ多くの食料を持参しました。缶詰、穀物、乾燥ソーセージ・・・。たしかバターも溶かして、瓶に詰めて持って行ったような記憶があります。それから忘れてはいけないのがトイレットペーパー。これを忘れたらもうおしまいです。現地では買えないものでしたからね」。
南で休暇を過ごすときには、自分で料理するか食堂で食事をするのが一般的であった。シャシリク(肉の串焼き)が75コペイカ、レストランでの夕食が2人で10ルーブルくらいだった。娯楽といえば、貸しボート(1時間40~50コペイカ)、アトラクション遊具(50コペイカ)、遊覧船(1.5ルーブル)などがあった。ちなみに観光客らは南への旅行に行くと、都会にはないフルーツやベリーを持ち帰った。ときには現地でこうしたフルーツやベリーでジャムを煮て、持ち帰ることもあった。
田舎に家を買うのはいいことか?
1968年のタス通信のデータによれば、クリミアを旅する人のうち、300万人がホテルを取らずに休暇を楽しみ、100万人がプランされた旅行を楽しんだ。そして1988年には600万人以上が自由旅行をし、200万人がサナトリウムやペンションで休暇を過ごした。
1991年ごろまでにソ連全土にあったサナトリウムの数は130万人を収容できるだけであったが、1989年のソ連の人口は2億8,600万人を超えていた。
人気ブロガーGermanychさんは「親戚の中でも黒海に行ったことがあるのは全員ではありませんでした(アゾフ海やカスピ海も同様)。同級生(ともちろんその両親)の中には海に行ったことがある人も全員ではありませんでした。シベリアで軍に勤務していた頃は、同じ軍の仲間の中で海に行ったことがある人は1人もいませんでした」と書いている。
誰もが自分で海や旅行施設に行けるわけではなかった。ティーンエイジャーや学生たちはキャンプに行けばよかったが、大人たちは田舎で休暇を過ごすという場合が多かった。自分のダーチャを持っている人は多くなかったが、田舎に親戚がいるという人は多かったのである。田舎に行けば、畑の草抜きをしたり、地元の貯水池で泳いだり、釣りをすることができた。
また夏の間だけダーチャを借りるという方法も人気があった。ダーチャを借りるのはそれほどお金がかからず、テラスだけを借りたり、いくつかの部屋を借りたりすることができた。料金は大都市からの距離や交通機関の利便性などによって違っていた。しかし、ダーチャが大きかろうが小さかろうが、水道やトイレは中庭にあった。