モスクワの地下鉄の運転手になったエチオピアの将校とモスクワ大学の文献学者

ミハイル・ポチュエフ
 モスクワの地下鉄でもっとも変わった運転手を見つけ、彼らに地下での生活について尋ねてみた。

ヴォルク・ベダソ:「地下鉄と離れたくない。地上のものはすべて見たから」 

ヴォルク・ベダソさん

 背が高く、笑顔が素敵なヴォルクはモスクワの地下鉄のレジェンドである。なぜ「地下の住人」になったのかと問うと、恥ずかしそうに「偶然なんです」と答える。

 エチオピア空軍の若き中尉はソ連時代に交換留学でこの国にやってきた。まず1985年にジョージアで、その数年後にアゼルバイジャンで学んだ。しかしここでヴォルクが社会主義の建設について学んでいる間に、母国エチオピアでは内戦が勃発し、「旧型」の軍人は新しい国家には必要なくなってしまう。妻と子どもたちはロシアには来たがらず、そのままエチオピアに残った。そしてその数週間後、ソ連邦が崩壊。バクーの外国人学生たちはモスクワに送られることになった。

 彼はモスクワで「難民」としての地位と労働許可証を得た。しかし経済危機の時代、仕事を見つけることは容易ではなかった。そのとき、ロシア人のガールフレンド、オリガが地下鉄のデポに行ってみてはと助言したそうだ。彼は機械に詳しかったからである。半年間の研修のあと、かつての将校は理論を習得し、運転助手になった。

 「最初は慣れなくて、怖いと感じたほどです。しかし軍人としての技能が運転手として働く助けとなりました。この職業には、ストレスに強いこと、そして軍のような規律と意欲が必要です」とヴォルクは語る。

 仕事をしながら、ヴォルクは鉄道大学に入学し、技師になるための勉学に勤しんだ。しかし仕事と勉学を両立させるのは非常に難しく、1999年には退職せざるを得なくなる。

 2010年に地下鉄に戻ろうと決心するまでに、ヴォルクはモスクワとソチで輸送会社に勤務し、オリガと結婚し、ロシアのパスポートを取得することができた。そして彼は再び、運転助手から一級運転士への道を歩むことになった。現在、自分の生活にはかなり満足しているという。「列車を運転するのは面白いし、給料もたくさんもらえます」。加えて、仕事を始めてから一度も緊急事態に巻き込まれたことはなく、ラッキーだと笑う。

 しかし彼は62歳で、運転士としてのキャリアに終止符を打つことにした。「若いときは負担など感じなかったのですが、この年齢になると少しきついんです」。そして地下鉄のデポの中での職に移った。「やっぱり地下鉄と離れたくないんです。地上のものはもうすべて見たのでね」。

 

アントン・フルィニン:「ドストエフスキーについてはもう話し尽くした。列車は子どものころから好きだったんです」。

アントン・フルィニンさん

 アントンはモスクワ大学でロシア語と文学を学び、大学院で1年半、研究を続けた。しかしあるとき、もうやめるべきときだと思ったのだという。アントンは、わたしに背中を向けて、スーツの襟からロッカー風の長い三つ編みが垂れているのを見るまでは、非常に真面目そうに見えた。

 アントンは次のように話す。「大学では非常に面白いテーマに取り組んでいました。スカンジナヴィア諸国におけるドストエフスキー作品の捉え方というものです。スカンジナヴィア諸国では、ドストエフスキーは非常に重要な作家として位置付けられているのです。強い情熱を持って研究に臨みましたが、論文を書いている途中で、別の研究者がすでにこれについて詳しく執筆していることが分かったのです。非常にがっかりしました」。

アントン・フルィニンさん

 以来、アントンは研究をやめたが、いまでも文学には非常に興味があるという。そして今でも論文を書いている。ただテーマは鉄道に関するものだ。そして2007年、子どもの頃からの夢を叶え、運転士として働くようになった。

 「5歳のときから鉄道ファンだったんです。人生最初の記憶は、地区の道を走るディーゼル機関車です」。

 現在、アントンは40歳。最近、期限よりも早く、二級運転士の称号を受け、また職業コンクールで入賞した。同僚のヴォルクとは異なり、これまでに緊急事態をなんども目にしてきた。

 「一度、戦勝記念公園駅で、乗客が線路に落下したのですが、わたしは途中で停車することができました。何か冒険的なものを求めて地下を掘る人に出会うこともあります。子どもの頃、鉄道模型のサークルに通っていて、それから文学サークルに通うようになりました。わたしには常に何かすべきことがありましたが、彼らにはすることが何もないようです」。 

 しかし何れにせよ、彼は、このようにまったく違う職業に転換したことを少しも後悔していないという。ただ列車は夢にまで出てくるのだそうだ。「赤信号で発進し、脱線するという夢を見たことがあるほどです。今は落ち着いて眠れるようになりました」。

 文学の知識が今の仕事に役立つことはあるかという質問に、アントンは哲学的に答えてくれた。「総合的な教育がわたしの人生を助けてくれています。仕事は人生の一部にすぎません」。

ヴァジム・カルーギン:「ラッシュアワーには2,000人を運びます」

ヴァジム・カルーギンさん

 この背の高い男性の若々しい顔を見ていると、彼がモスクワの地下鉄のもっとも古くからの運転士の1人で、「労働ベテラン」の称号を持っている人とは信じられない。55歳のヴァジムはその人生の大半を地下で過ごしてきた。現在は一級運転士である。軍から戻ったあとすぐ、未来の義母に連れられ、地下鉄で働くようになった。

 「彼女自身、飛行機に関する仕事をしていて、責任ある仕事とは何かをよく知っていました。それに運転士の制服も気に入っていたようです」とヴァジムは回想する。「そういえば、我々はときどき地下のパイロットと呼ばれることがあるんです。しかしパイロットは飛行機で300人を乗せるだけですが、わたしはラッシュアワーのときなど2,000人以上を運びます。わたしたちの方が責任が重いのです」。

ヴァジム・カルーギンさん

 ヴァジムによれば、モスクワの地下鉄はもっとも美しいだけでなく、もっとも安心できる乗り物だという。「1990年代の経済危機で、多くの人々が給料をもらえなかったときでも、地下鉄の運転士には遅延なく、給料が支払われていましたし、列車もダイヤ通り運行されていました。なぜなら、地下鉄が止まれば、モスクワの生活が止まってしまうからです」。

 ヴァジムは言う。仕事でもっとも大切なのは指示に正確に従うことだと。彼は、「地下鉄ではすべてがものすごいスピードで進んでいます。運転士には失敗は許されません。しかし34年間、勤務してきて、一度も注意を受けたことはありません」と言い、「しかし来年は年金生活に入ろうと思っています」と付け加えた。

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