ロシア人が私の人生をどう変えたか:日本の鬼島 一彦

個人アーカイブ
 初めてロシアに訪れたのは、10年前だった。飛行機の大幅な遅延でトランジットに失敗し、真冬のモスクワで1泊を余技なくされた。数年後自分がここでロシア人の妻と暮らしながら、人生をかけたビジネスを仕掛けていく場所になるとは思ってもいなかった。

国際結婚とロシアでの起業

 私はもともと看護師の資格を持ち、日本ではその分野で働き始めた。しかし、二年後、転職をする前に休暇をとってバックパックでヨーロッパを回った。ロシアに行く予定はなかったが、ポーランドに行く途中で乗り継ぎがロシアだった。空港のロシア人職員は英語が話せなくて、飛行機を逃してしまった。二月で非常に寒くて、ビザがなかったので、ホテルからも出られなく、初めてのロシアの印象はきわめて悪かった。

 私がロシア人妻、ナターシャに始めて出会ったのは日本だった。彼女は日本語を習っていて、短期留学生や交流事業の参加者として何回か日本に来て、最初からお互いに印象がとても良かった。結局「この人とずっと一緒にいたい」と思い、二人でウクライナに行き、私はそこで言語学校でロシア語を学び、彼女は日本語の教師として働いた。ロシア語はもともと将来に医療の分野で使いたいと思っていた。その後はロシアに戻り、サンクトペテルブルクに住み始めた。私がやりたいことをやるように、彼女は私をいつも応援してきた。もちろん、価値観の違いもあるが、逆にそうだからやり切れる時も多い。

人生をかけて取り組んだラーメンビジネス

 6年前に、サンクトペテルブルクに法人登録を行い、医療・輸出入・経営コンサルを3軸とした活動を開始した。経営コンサルでサンクトペテルブルクのラーメン屋、「ヤルメン」の立ち上げでロシアで初めてラーメンビジネスに触れる切欠となった。私の親戚が実家の山形県でラーメン店を営んでいたこともあり、ラーメンは自身にとって深い思い入れのある食事であった。

 結果、「ヤルメン」は現地日本人駐在員なら誰もが知る店になっただけではなく、ロシア人にも大変な人気を博すこととなった。しかし開店当初は材料の大半を日本からの輸入としていたが、ウクライナ危機によるルーブル安で、原価が高騰したのだ。私は材料調達を輸入から、ロシアで購入できる食材を使ってロシアならではのラーメン作りにシフトした。その結果、利益率が上がっただけでなく、ロシアならではのラーメンを作るノウハウが溜まっていった。その後、2017年には首都モスクワでのラーメンブームの火付け役となった、「ラーメン居酒屋KU:」の立ち上げにも一役買った。また昨年には製麺所「FUKUONI」も立ち上げ、更なるロシアラーメンビジネスへの仕掛けを拡大している。

 サンクトペテルブルクは街がこじんまりしていて、徒歩でたくさんのところを観光することができます。生活はモスクワよりも物価が安いですし、天気に関してはもちろん賛否両論あるが、私はサンクトの憂な天気も含めてこの街が好き。モスクワはロシア人だけでなくたくさんの国からたくさんの人が集まるメガポリスで、人や物やビジネスのスピードが違うし、モスクワの人は本当に働き者だと思う。

「今この瞬間」を大切に生きるロシア人

 ロシアは多民族国家であるため、アジア人として暮らすのは私が留学で住んだことのあるスペインよりも快適だと言える。スペイン人は知り合った瞬間からとてもオープンで友達の扱いをされるが、彼らにとって日本人や韓国人などは「アジア人」のグループに区別され、時々差別を感じる時があった。ロシア人の態度はより冷たくて、彼らと親しくなるまではもっと時間がかかる。しかし、日本に関する印象はとてもポジティブで、ロシア人の中でもアジア系の人が多いため、同等と感じる。

 同時に、ロシアでは知り合いと知り合いじゃない時のギャップがとても激しい。空港や公共施設での対応はやっぱり無機質でストレスを多く感じることがある。最近は役所とか郵便局でも順番待ちの札を得ることができるようになったので、昔のように「最後の人だれ??」とか順番待ちリストを作って回したりしなくて良くなった。

 ロシアでは、過去と現在と未来がなかなか一直線には繋がりにくい。経済的に安定していて、ある程度将来が保障されている日本で育った我々と違って、より“今この瞬間”を大切に生きてきたのだ。

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