ソ連初のサーファー:「資本主義的」スポーツをどうやって習得したのか?

ワシントン付近、1970年代。

ワシントン付近、1970年代。

個人アーカイブ
 彼は現在ほぼ80歳。しかし毎日スポーツをし、半世紀以上前にクリミアで最初にサーフボードの上に立ったことを今でもはっきり覚えている。

 1966年8月。3日間待ち続けた後、クリミアにあるタルハンクート岬の砂浜にようやく砕波がやってきた。波の音は夜中から聞こえ始め、夜明けにニコライ・ポポフは友人たちとともに、アメリカとオーストラリアの雑誌に書かれている記述を基に作ったサーフボードを試すことにした。「波は定期的にはきませんでした」とニコライは回想する。「それでも、あれはおそらく、ロシアで初めて行われたサーフィンだったのではないでしょうか」。

 ソ連では、サーフィンが発展していたオーストラリアやニュージーランド、アメリカを訪れることができた人は少なかった。そうした国を訪れることができたのは外交官か世界120カ国以上に駐在員を置いていたソ連の通信社「ノーヴォスチ」の記者だけであった。

 ニコライは話す。「1966年、ノーヴォスチで働いていたとき、わたしは同僚に、自分が当時興味を持っていたサーフィンについて誰か話を聞ける人はいないかと尋ねました。100人くらいに訊いてみましたが、サーフィンというものについて聞いたことはあるが、やってみたことがある人はいないということが分かりました。あの当時、ソ連の市民たちには出張中に外国の変わったことを試すことはあまり感心されることではなかったからです。そこでソ連で最初のサーファーになることがわたしのミッションだと思ったのです」。

ジャック・ロンドンと自作のサーフボード 

 しかし実はモスクワ大学の山スキーチームのキャプテンをしていたニコライがサーフィンに興味を持ったのはもっと前の1961年のことであった。ジャック・ロンドンの「The Cruise of the Snark」をプレゼントされたときのことであった。その本の中で作者は、友人たちとヨットを作り、そのヨットでほとんど世界一周し、ハワイやポリネシアを訪れ、そこで初めて人々が波乗りをしているのを見たと綴っていたのである。

 ニコライは言う。「それは非常に強く印象に残りました。それでわたしもいつか必ずサーフィンをやると決めたのです。そのためにはどこか遠くの南の国に行かなければならないということは分かっていましたが、それは非常に難しいことでした。そこでわたしは1965年に大学を卒業すると、アメリカの古い雑誌を手掛かりに自分でボードを作ろうと思いつきました。わたしはモスクワ大学の地理学部で学んでいたので、海洋学者の友人がいたのです。それで国内にサーフィンに適した場所がどこかを調べてもらえるよう頼み込んだのです」。

ワシントン付近、1970年代。

 結果、友人たちは、砕波ができるのはエフパトーリアかマハチカラの近くのカスピ海沿岸だと結論づけた。そこでニコライはクリミアに調査に行き、発泡プラスチックでボードを作ることにした。ニコライは次のように回想する。「クリミアには自動車で行き、沿岸に小さな家を借り、友人とともにボードを作り始めたのです。3日でちょうどよい形ができ、それをエポキシ樹脂で貼り合わせ、上からファイバーグラスを貼り、フィンをつけました。すべてアメリカの雑誌に書いてあった通りにしました。もちろんこのサーフボードはあまり長持ちしませんでしたが、それでも激しい波で破損するまで、1ヶ月ほどは使えました」。

アメリカからソ連へ

クリミア、タルハンクート岬。1966年。

 クリミアから帰った後もサーフィンをめぐる物語は終わらなかった。1970年、ニコライはソ連の展覧会のためアメリカを訪問することになったのである。アメリカ滞在はほぼ1年に渡り、さまざまな都市を訪れた。そんなニコライは、サンフランシスコやロサンジェルスで、すぐに地元のサーファーたちと親しくなり、ほぼ1ヶ月、サンフランシスコからほど近いハーフムーンベイやスティンソン・ビーチなど、有名なサーフスポットでサーフィンを楽しんだのである。

 「やはりここまでするにはある程度、熱狂的でなくてはなりませんでした」とニコライは振り返る。「ボードで頭を打つなんてことはよくあることですし、しかもこのスポーツは15分で楽しめるものではありません。波が来るのを待つのに2−3時間待たなければならないし、その間、冷たい水の中でウェットスーツも着ないで時間を過ごさなければならなかったのです(当時、まだウェットスーツを持っていなかったのです)」。

自分でボードを作っているニコライさん(後ろ向き)。

 それからまもなくニコライは再び、仕事でアメリカに行き、2年滞在することになった。1972年から1974年のことで、そのときにはシーズンが終わる11月半ばまで毎年、定期的にサーフィンをした。このころにはニコライも自分のウェットスーツも持っていて、また知り合いから50ドルで買ったボードも持っていた。

 1975年にソ連に戻ったとき、ニコライはソ連初のサーファーとして、国内にサーフスポットを作るという課題を自らに据えた。テントを持って、マハチカラの近くにあるスラクスキー半島を2回訪れ、ラトビアのリジスコエ磯やリトアニアのパランガ、エフパトーリアの近くでもサーフィンをした。

 「わたしには教え子はいませんでしたが、やってみたいという人がいれば、自分のボードをときどき使わせていました。皆、好奇心はあるのですが、やはりサーフィンには慣れが必要で、最初からうまくは行かないのです。これまで、この趣味に胡散臭い眼差しを向けられたことは一度もありません。政府もコムソモールもこの趣味に対して、敬意を払い、認めてくれていました」。

発展への貢献 

クリミア、タルハンクート岬。

 1970年代半ば、「若者の技術」という雑誌にニコライ・ポポフが執筆した2つの記事が掲載された。そしてこの記事に対して国じゅうから多くの反響が寄せられた。人々はサハリンやカムチャツカでサーフィンを試したとその様子について伝えてきたのである。「唯一、皆から寄せられた不満は水がものすごく冷たいということでした。ウェットスーツなしで膝まで浸かれないと」。

 この記事のおかげで、ニコライはフェオドシアの近くにある造船工場の幹部らと親しくなった。この工場はウィンドサーフィンのボードを設計していたのである。「彼らはそれを組み立て式にしようとしていました。3メートルの重いボードをサーフ用にするのです。それでわたしはどうすればよいか助言をし、実験のお手伝いもしました」とニコライは回想する。結果できたのは、扱いにくく、厚みがあり、サーフィンにはあまり向いていないものであったが、しかしそれはソ連でボードを作ろうとする最初の試みであった。

カリフォルニア、サンフランシスコ付近。1970年。

 最後にニコライがサーフィンを楽しんだのは1987年。それ以降、アメリカで買った2枚のボードはダーチャにおいたままだ。「またサーフィンをしてみたいかって?そうだね、やっぱりやりたいね。でも小さい波で、だね」とニコライは微笑んだ。

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