ビートルズ「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」:平和を呼んだパロディー

ライフ
トミー・オカラガン
 1968年に発表されたビートルズの政権転覆的で寛容なセルフタイトル・アルバムのオープニング曲は、当時の西側世界の権力層を愕然とさせた。だが何より、この曲はロシアの音楽ファンらに、彼らが孤独ではないことを教えた。

 「ビートルズは私たちに民主主義の考えをもたらした」というロック歌手サーシャ・リプニツキーの言葉が、レスリー・ウッドヘッドの著書『クレムリンを揺るがせたビートルズ』に引用されている。「私たちの多くにとって、これは鉄のカーテンに初めて開いた穴だった。」  実際1960〜70年代には、密輸されたビートルズのレコードだけがソ連で入手できる唯一のものだった。鉄のカーテンという通り抜け難い壁も、東側の熱烈なビートルズ・ファンを止めることはできなかった。彼らはビートルズのレコードを大量に密輸し、後にヒッピー、反体制活動家、時代を変えるミュージシャンになっていった。

 今から振り返れば、リバプール出身のアイドルの愛は、西側の人々とソ連市民との溝を越えた数少ないものの一つだった。当時はマッカーシズムが共産主義に右翼的見地から対峙しており、「新左翼」はオーウェルやソルジェニーツィンに読み耽り、ソ連がもはや粋な国ではなくなったことを悟っていた。冷戦は笑い事ではなかった。

 なるほどビートルズは当時のポップカルチャーを体現していたかもしれない。だがこのことは、彼らがすっかり「生意気」になることを止められなかった。反抗者であった彼らは、西側の新しいナラティヴを粉々に引き裂かないわけにはいかなかった。こうして『ホワイト・アルバム』のオープニング曲「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」が登場した。

1960年代式の「荒らし」

 「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」は最初から最後まで冗談で満ちている。この曲の冷戦政治の話に入る前に、音に注目しよう。アップビート、7小節のブルース調のピアノのリフは、明らかにビーチ・ボーイズに特徴的な音のパロディーだ(この曲はビートルズのインド・リシケシュでの休養の際に書かれたが、幸運にもこの時マイク・ラブが同行しており、彼らに承認を与えた)。次にタイトルだ。チャック・ベリーの旗を振るような「バック・イン・ザ・U.S.A.」や英国首相ハロルド・ウィルソンの「アイム・バッキング・ブリテン」キャンペーンを同時に揶揄している。

 もちろん、この象徴的な曲に見られる「荒らし」が印象的なのは、その多角性だけでなく、ほとんど何もないところから大騒動を作り出す能力故だ。「ウクライナの女の子たちが僕を叩きのめす」や「君のバラライカの音色を聴かせて」はソビエト文化の賛美などではなく、むしろセクシーさに乏しいと考えられていたソビエト文化を軽く嘲笑したものにすぎない(念のため言っておくと、1960年代にはモスクワやウクライナの女性に対する評価は現在ほど高くなかった)。

 それから「ジョージアはいつも我が我が我が我が我が我が我が我が我が心に」という歌詞。ホーギー・カーマイケルの1930年のヒット曲「我が心のジョージア」をもじったものだが、唯一の違いは、これが米国南部のジョージア州ではなく、北コーカサスの国家ジョージアを指すという点だ。

 ある意味、「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」が風刺的なのは、ソ連について歌ったからというよりも、そもそも共産主義国家に言及したからだ。実質的にビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」のパロディーであるこの曲から我々が引き出し得る政治的メッセージの唯一の類似点は、ロシア人とアメリカ人を同等に描き出している点だ。自身の伝記でポール・マッカートニーは、この曲の味方は「多くのものは手に入れられないが、アメリカ人と同様に誇りを持っている人々」だと説明している。

 しかし、1968年のパラノイア的風潮の中で、この曲は十分スキャンダラスだった。

誘いに乗る

 公正のために言えば、1968年当時の人々はジョークを理解した。今や19倍プラチナ・アルバムとなった『ホワイト・アルバム』は、ビートルズが最も人間味と遊び心に溢れていた頃の作品だ。LPのより広いコンテクストで言えば、「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」はレコード全体を貫く大胆さをよりありのままに、より力強く表現した形態だった。

 しかし、あまり感動を受けない人々もいた。クラシックなロックにわずかに漂うプロパガンダの気配をパロディー化することは、ソビエトのプロパガンダそのものと解釈されかねなかった。こうしてビートルズは米国の独善的な政治的憤慨の的となることを運命づけられた。一例として、極右のジョン・バーチ協会は「君たちは自分がどれだけ幸運なのか分かっていない」という歌詞を取り立てて攻撃し、共産主義を助長して敵に共感しているとしてバンドを糾弾した。

 憤慨に続き、陰謀論が現れた。右翼評論家のゲイリー・アレン(現在のアレックス・ジョーンズのような人物)は「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」と同アルバム収録の名曲「レヴォリューション」との平行性を指摘し、ビートルズは実のところスターリニストで、「トロツキストと対立するソビエト政府の立場を取った」と結論づけている。またアレンは、ビートルズが密かにソ連に渡り中央委員会に対し特別コンサートを開いたという人口に膾炙した噂の発信源だと考えられている。この説は、ソビエト政府がビートルズに対して「西側文化のおくび」というレッテルを貼ったことでいくぶん弱まった。

 当然、「新左翼」の一部も小規模ではあるがこの曲に批判を向けた。1968年は折しもソビエトがチェコスロバキアを占領した時期だった。イアン・マクドナルドは、1995年の著書『頭の中の革命』で、この曲を回想して「機知を欠く冗談」と批判している。

無意味なジェスチャーなどではない

 1964年のインタビューで、ジョン・レノンはビートルズが「非米国的」という批判にこう応じている。「なかなか鋭い人たちだ。実際僕らはアメリカ人じゃないからね。」

 四人組は「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」をめぐる批判に全く動じなかった。ビートルズが大胆にもソビエトのファンに手を伸ばしたことについて、マッカートニーは『プレーボーイ』にこう話している。「海を越える握手だった。(…)クレムリンのお偉いさんたちはさておき、向こうには僕たちを好いてくれる人たちもいたからね。」

 もちろん、「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」ほどソビエトのファンとの禁じられたつながりを示す曲はない。1980年のモスクワ・オリンピックでは不法に(しかし人々の要望で)エルトン・ジョンによって演奏された。ポール・マッカートニーが2003年にプーチン大統領が最前列に座る会場でついにこの平和の聖歌を歌ったさい、聴衆はうっとりと聞き入った。

 これも驚くには値しない。「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」は不朽の名作だが、それはビートルズの世界中を魅了する力の故だ。スパイ疑惑、代理戦争、フルシチョフの靴叩きなどで世界の空気が張り詰めていた時代にあって、この曲は世界の大権力者を苛立たせるほど政治的だったが、他の人々には身近なジョークとして響いた。音楽による風刺としてこれ以上に胸を打つものはないだろう。