なぜロシアは頗る陰鬱なのか

ロシアの産業都市マグニトゴルスクの展望台で休んでいる女性。

ロシアの産業都市マグニトゴルスクの展望台で休んでいる女性。

Reuters
 ロシア人について何もかも想像通りというわけではない。彼らの「悲しみ」は、実は(より深い悲しみを隠すために?)精巧に練られた対処メカニズムなのだ。

 ロシア人に陰鬱さが特徴的である理由を概説するのは途方もない作業だ。まず、どちらが真実なのだろう。ロシア人が本当に陰鬱な集団なのか、あるいはロシア人は、よその幸福の概念を無理やり押し付けられているにすぎないのか。どうやら、どちらも部分的に正解らしい。

  まず、なぜロシア人は「陰鬱」なのか。こちらをご覧頂きたい。

ロシア、ペトロパブロフスク・カムチャツキー

 それからこちら……

寝ているホームレスの男性、ロシア

 ……そしてこちら!

 もちろんこれらの写真自体は指標にはならない。ロシアでの暮らしがとても良いわけではないことを示唆するものにすぎない。

  だが、陰鬱さがロシア人の際立った特徴である理由なら、いくらでも挙げることができる。ひどい道路、国内の福祉・教育レベルのばらつき、極北の社会的孤立、工業都市での癌のリスク、汚職の蔓延ゆえに発展の見込みのない地方の暮らし、不均等で予測不可能な天候、寒い時期には人々が家に閉じこもってしまうこと、夜が来るのが早く、無数の空き地があること。

 それから、ロシアは地上最大の国であると同時に、地上で最も人口密度の低い国の一つでもある。ロシア人はしばしば社会的に孤立する。しかし他の国民と同様、ロシア人はこうした辛さをすべて歌や本、映画という形で表現している。

 皆が自国文化を表現すれば、必ずどこかでコインの表裏のような関係が生まれるものだ。パナマ人が自分たちの幸福に抗わないように、ロシア人は自分たちの苦しみに抗わない。

答えは一つではない

  鬱の原因となる自然条件を持ち出せば、スウェーデンやノルウェー、フィンランドの都市を思い描くかもしれない。それも間違いではないだろう。北極圏付近ではひどい鬱病になり得る。生活水準が高いにもかかわらず、こうした国々はヨーロッパの中でも高い鬱病発症率を示しているのだ。幸福になるにはビタミンDが必要、これは科学的な事実だ。

  それでも、上記の国々は陰鬱さの度合いでロシアに到底敵わない。少なくともロシアの外側にいる人々の目にはそう映る。

  今日まで、ロシアはソ連崩壊の余波で生まれた大きな格差を是正しようとしている。ソ連崩壊後は、ロシアのGDPの半分以上が、1990年代初頭の急激な改革の混乱に乗じて企業を買収した地下犯罪王らの手に集中した。共産主義が去り、代わりに「ギャング資本主義」と経済学者が呼ぶものが現れた。しかしアイデンティティーを作り直すことが急務だった国にとって、これは打撃だった。単一の国家理念がなければ、結局金こそが幸福ということになってしまう。

 ところで、ロシア文化が概してロシア人をどう扱ってきたかに関する古くからの問題は、解決していない(小さな町の病院がどんなものかご覧頂きたい)。悪循環は続いている。タフな時期を生き抜くためには、ロシア人はタフで不機嫌になる必要がある。マチスモ文化が未だ消え去っていない。

  多くの旧ソ連諸国と同様、苦痛の否定が文化の核の一部を成している。筆者の記憶する限り、ロシアという国では、不平を言えば言うほど、どうして苦痛が重要で良いものなのかについて神話的な説教を受ける。苦しみと犠牲に重きを置く正教会の教えに多分に通じるものがある。より商売精神に満ちて闊達なプロテスタントとは正反対だ。ロシアで「キリスト教的価値観」が健在なのも頷ける。揺るぎない国家的理念の代わりにこれを使うのは大変便利だ。あなたの問題に対処できる者は神をおいて他にない。間違っても政府は助けてくれない。

ロシア人のサバイバル術

  そして、中央政府というものに全く信用を置かないロシア人が、失望感を内面や芸術に向けるのも無理はない。「真のロシアのマッチョ」になるか、静かに芸術的に苦しむしかないのだ。他に選択の余地はない。皆さんは苦しむほうを選ぶだろうか。とにかくそんなわけで、ロシアに来る旅行客は、ロシアの優れたバレエや建築が、これほど虐げられた人々の中からどうやって生まれるのか合点が行かないのである。

  ロシア人だって鬱になりたくない。誰も普通はそんなことを望まない。ところでロシア人にとって救いなのは、自己表現に禁忌が全くないことだ。皆さんもそれを目にしている。文学や映画、バレエ、飲酒、喧嘩という形で。

 それらを分けることはできない。ロシアとは、言ってみればパッケージツアーのようなものだ。 内面的な葛藤をいくぶん理解するために、フョードル・ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んでみよう。この小説を実存主義ジャンルに属する最初期の作品と見る人は多い。より最近の作家では、セルゲイ・ドヴラートフの短編を読むと良い。絶望感が透けて見える。だがそれは、幸せだが諦念に満ちた喜劇的な絶望感なのだ。ドヴラートフはロシアで最も愉快な人物に違いない。晩年には文学的に狂気に走った喜劇の天才ニコライ・ゴーゴリもそうだ。

 この記事で言及したいくつかの他の国とは違い、ロシアの大きな尻はヨーロッパとアジアに跨っている。ロシア人であることは感情的な混乱を招く。ロシア人の民族的・心理的な核は薄弱だ。ロシア内に別個の民族と指定されている190近い民族集団が存在することも問題をややこしくしている。

  ロシア人の冷笑的態度は、自然発生的な不統一性によって生み出されている。それは改善の見込みに対する期待の欠如や、表現力への生来の傾倒と混ざり合っている。結果できあがるのは、投げかけられたものすべてに対して不満げで、また(西側の人々が大いに落胆するように)現状に対して何もしようとしない、不機嫌で外向的な国だ。それどころかロシア人は現状に大いに満足しているのだ。ロシア人に幸せになれと言うことはできない。彼らはすでに幸せだからだ。そんなものは幸せではないと説得しようとも、彼らは聞く耳を持たないだろう。

  結論すれば、筆者はロシア人の悲しみを美化する多くのロシア好きには同意できない。ロシア人は謎めいた雰囲気を身に纏い、誇りの証として「魂」を削るのが好きなのだと言う人もいる。現代のグローバル文化がこの考えを利用するかもしれないが、それでは内的な因果律を無視することになってしまう。ロシア人の悲しみは理解できないだろう。それは「フランス人の傲慢さ」や「ドイツ人の謙虚さ」を理解できないのと同じだ。これらはすべて、紐解くには複雑すぎる膨大な状況要因の指標でしかない。

伝統的な衣装を着ているロシア人

 なお、ここで述べられた見解や意見は筆者個人のもので、必ずしもロシア・ビヨンドの立場を代弁したものではない。

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