美を再考する:体に負った火傷と苦悩がロシアの10代の少女にいかにして名声をもたらしたか

ライフ
トミー・オカラガン
 体の50%を覆うスヴェータ・ウゴリョクの火傷は、トラウマとネグレクトの人生で得た彼女の闘いの傷跡だ。現在18歳の彼女は、新たなスタートを切り、モデル業界で人気になってきている。

 「私は、火傷があっても、子どもの頃からモデルになりたいと思っていました。私は、なんとしても、体を肯定するようなモデルになれるかもしれないと思っていました」

 「どうやって始めたかは覚えていないんです。インスタグラムに自分の写真を投稿し、フォロワーと広告を得るためにいくらかお金を使いました。

 いろいろな反応がありました。攻撃的なことを言う人もいましたが、もちろん、すべての人がそうではありません。“やり続けてね、あなたがやっていることを続けて”というようなことを、感嘆して書いてくれる人たちもいます。3、4千人のフォロワーがついた後でも、彼らから否定的なことや攻撃的なコメントはひとつもありませんでした」 

 「フォロワーが1万人を超えると、取材が増え、火傷を負った他の少女たちからメッセージが届くようになりました。彼女たちは、写真や映像を送ってきてくれました。彼女たちの多くが、悲しい経験を持っていました。プレッシャーを感じている12歳とか14歳という若い子もいました。なぜなら、彼女たちは排除されたり、あるいは、自分のことを“皆の一員”ではなく“不完全“な人間だと思っているからです」

 ひどい状況にある拒食症の少女が、私にメッセージを書いてきてくれました。それで、インスタグラムを通じて、彼女のために6万5千ルーブル(1050ドル)を募ることができました」 

 「火事が起こったのは私が4歳の時です。母はペリメニを買いに店に出かけていて、真っ暗になってしまいました。我が家は電気代を支払っていなかったために、アパートの部屋は電気がつきませんでした。私は暗いのが怖くて蝋燭を灯すことにしたんです。私は蝋燭が灯るのを見ていました、そして、母がかつて糸に火をつけていたのを思い出したんです。私は自分のネグリジェで同じようにしようと思いました――そうしたら、ネグリジェに火がついたんですが、逃げようともしませんでした。 

 私はわずか4歳だったので、燃えてしまうということを理解していなかったんです」

 「ネグリジェはレースでできていたので、とてもゆっくりと燃えていきました。その後で、生地がぱっと燃え上がったんです。私は大声で母を呼びましたが、彼女はいませんでした。ネグリジェは、私の体を包んで燃え続けていました。私は自分で消そうと思いました。廊下に椅子が一脚あって、キッチンにもひとつありました。こっちの椅子からもうひとつの椅子へと、走って行きつ戻りつしました。それでようやく火が消えたのです。 

 母が戻ってくるまで数時間ありました。私は覚えていないんですが、母は、たった5分留守にしただけだと言いました。6月1日の子どもの日でした。夏でしたが、母が戻ってきたときにはすでに真っ暗でした。だから、5分ということはありえません。

 母が部屋に入ってきたとき、私は彼女のところに行き、彼女は私のネグリジェを脱がそうとしましたが、まったくお手上げでした。私たちの建物には1階に救急隊がいました。胸に何かを注射されながら、彼らと一緒に救急車に乗りました。それが、私が覚えている最後の記憶です。私は昏睡状態に陥り、その後2ヶ月間意識のないままでした」

 「意識が戻ったとき、母はそこにいませんでした。腕が脚にくっつき、お腹全体が痒かった。手足をバタバタと動かし始めました。すごく心配だったんです。口もきけなかったし、歩くこともできず、自分の両手を感じたり、足をまっすぐに伸ばすこともできなかったからです。

 この事件が起きる前も、母は私のそばにはいませんでした。そして、私が集中治療室に入っている間も、一度も来ませんでした。火がとても強かったために、私は乳腺や乳首などをすべて焼失してしまいました。損傷の少ない部分の皮膚を移植するためにドナーが必要でしたが、母の皮膚は使えませんでした、酒を飲んでいたからです。 

 「数年後に、私が1年生になると、母はまた大酒を飲み始めました。彼女は、自分を取り戻そうと努めましたが、数年後にはまた飲酒に戻ってしまうのです。私は学校でいじめられました。そして家に帰ると、母に“あんたなんか大嫌い、あんたなんか私の娘じゃない”というようなことを言ったものです。

 9歳のときに、母は私にナイフを投げつけてきました。私は警察に行き、被害届を提出しました。警察は母が私をどんなにひどい目に遭わせているか知っていたので、私を監視してくれるよう児童保護施設に連れて行ってくれました。母と一緒に暮らすことは恐ろしいし、不可能でした。私は母に火事のことを話しましたが、母は、それは不幸な出来事だった、自分は悪くないと言っただけでした」

 「コムソモリスク・ナ・アムーレ(ウラジオストクの北680マイル)での私の子ども時代はつらいものでした。火傷のせいでいじめやプレッシャーがひどかったんです。ある男の子が私のところに走ってきて、胸に触るんです――私は女の子なのに胸が成長していないことは明らかです。それで、私に胸がないというので皆で笑うんです。 教室中が見ていて、私にとってはとても屈辱的でした。私は(当然)泣き出してしまいます」

 「実際、私は、人生の間ずっとこの火傷の治療を続けてきました。15歳のときに最後の手術を受けました。でも、歳をとるにつれて、だんだんと治療も楽になってきました」 

 「私はいま、ネットで知り合った男の子と一緒にモスクワで暮らしています。彼は私が自信を取り戻し、再び自分になるのを助けてくれました。彼は私を支えてくれる人で、私が自分自身と再びつながることができるよう支援してくれた人です。以前の私は、とても不幸で、不安定でした。彼は、火傷は大したことじゃないと言ってくれたんです――私のことを醜くないと言ってくれたのは人生で初めてでした。それどころか、彼は、私が他の人たちとは違っていて格好いいと言ってくれたんです。

 彼は私にこうも言いました。“いずれにせよ極東の人たちは違っているからね”」

 「実際にはすごくあからさまなのに、私が気づかないだろうと思って、火傷を指さしたりするというおかしなことが時々あります。私は彼らに近づいていって、“何を見ているの? 触りたい? そんなに熱心にじろじろ見るほどあなたの注意を引くのは何かしら?”と言うこともあるかもしれません。時々、すごく攻撃的になることもあります。普段の私はただ微笑むだけですけどね。多くの人が、自分がやっていることが攻撃的だと単に知らないだけだということを、人々は嘲笑されたり社会的に脇に追いやられたりすると、本当に安心しては暮らせないということに気付くのです。私はそのことに慣れていますが、それでも不快です」 

 「あなたたちが不完全だと感じるかもしれないものでも何でも、人生であなたが行動することを思いとどまらせなければということではありません。これを皆に見せたいんです。何かを達成したいのなら、他人の言うことに耳を貸さずに、自分の声を聞き、行動すればいいのです。 

 ある日、友人が私に近づいてきて、“スヴェータ、私はあなたに、ある種の皮肉な/攻撃的なニックネームをつけてるのよ”と言いました。ウゴリョクです――小さな石炭のひとかけら、あるいは何か燃えたものを意味します。2年ほど前のことでした、自虐のようなものだけど、とても可愛いと思って記憶に残っているんです。このニックネームを気に入っています。まさしく私のことでしょう」