ソ連とアメリカが第三次世界大戦の瀬戸際に:キューバ危機の発生と解決

歴史
ボリス・エゴロフ
1962年10月27日、いわゆる「暗黒の土曜日」、世界は、「核黙示録」の一歩手前まで迫っていた。キューバ上空で、ソ連の地対空ミサイルがアメリカの偵察機「U-2」を撃墜し、パイロットが死亡した。

 この日、米ソ間のキューバ危機は最高潮に達した。超大国間の対立は、ソ連が、その友好国であるキューバに、ワシントンを射程に収める中距離弾道ミサイル「R-12」を配備したことにより生じた。

 この措置は、1961年にアメリカがトルコに中距離弾道ミサイル「PGM-19ジュピター」を配備したことへの対応だった。ソ連のロディオン・マリノフスキー国防相によると、これは「10分以内にモスクワへ到達する」。

 10月22日、米国はキューバを海上封鎖した。米偵察機は常にキューバ島の上空を飛行していたが、ソ連の地対空ミサイルはそれを撃墜しようとはしなかった。

 10月27日に偵察機のうちの1機がついに撃墜されると、状況は急激に悪化し始めた。ジョン・F・ケネディ大統領の顧問らは、キューバ侵攻を開始し、駐留するソ連軍を攻撃することを大統領に提案した。

 一方、キューバの指導者フィデル・カストロは、ソ連の指導者ニキータ・フルシチョフに、米国を攻撃するよう呼びかけた。しかし、超大国の指導者たちは、最終的には交渉の道を選択した。

 両国の指導部間の集中的な対話が実を結んだ。ソ連は、キューバから攻撃兵器を撤去することに同意した。米国は、トルコからジュピターを撤去し、キューバの安全を保証すると約束した。

 1963年1月、米ソの共同声明の後、キューバ危機の問題は、国連安全保障理事会の議題から外された。