「リボルバーを引き抜いて撃とう、とまず思った。だが、その日、私はジャケットではなく外套を着ており、リボルバーはコートの下のズボンのポケットにあった。だから、発砲する前に拘束されるだろうと悟った」。イギリスの諜報員レオニード・オガリョフは尋問のなかで、失敗した暗殺計画についてこう語った。
当時、スターリンは一般人に混じってモスクワの通りをよく散策していた。もちろん、その際には、ソ連共産党中央委員会書記長の重職にある彼は、警護されてはいたが。
1931年11月16日、ヨシフ・スターリンがいつものように「赤の広場」からイリインスキエ門に向かって歩いていたところ、オガリョフが彼に気づいた。
英国情報機関で働いていたことに加え、プラトーノフやペチンの通称ももつオガリョフは、ソ連政権の熱烈な反対者であり、白系移民でもあった。スターリン殺害は、この諜報員の任務に含まれていなかったが、彼はこんな千載一遇の機会を逃したくなかった。
もっとも、彼は結局、多数の警備員を前にたじろいだ。スターリンに付き添っていたのは8人ほどだった。
事件の2日後、ソ連の秘密警察「合同国家政治保安部」(OGPU)からの報告がスターリンに届いた。そこでは、事件の状況について、やや異なる説明がなされていた。
それによると、オガリョフは、首都モスクワに到着したその瞬間から、OGPUの監視下にあったという。スターリンの件の散歩中には、オガリョフを、彼が滞在していたアパートの主人も尾行していた。彼もまたソ連の諜報員であり、オガリョフが拳銃を引き抜こうとするのを妨げたのだという。
いずれにせよ、英国諜報員は拘束され、スパイ活動とテロ行為で有罪判決を受け、処刑された。そしてスターリンは、政治局の幹部の決定により、モスクワでの「散策」を禁止された。
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