“怪僧”ラスプーチンの殺害犯たち:犯行後の彼らの人生は?

Kira Lisitskaya (Photo: Universal History Archive/Getty Images, Legion Media)
 陰謀に加担したのは誰か?彼らのその後の運命は?これらについて語ろう。

 1916年12月30日、小ネフカ川のペトロフスキー橋の下で、グリゴリー・ラスプーチン(1859~1916年)の遺体が発見された。皇室は、彼を限りなく信頼していた。シベリアのトボリスク出身の“長老”は、血友病に苦しんでいた帝位継承者、皇太子アレクセイの血友病の症状を何らかの理由で軽減できた。時とともに彼は、皇帝ニコライ2世の家族にますます影響を及ぼすようになった。

 彼については、あらゆる類の噂があった。ラスプーチンはドイツのスパイだという者もいれば、神秘家で催眠術師だという者もいた。しかし、誰もが同意見だったのは、皇帝と皇后が完全に彼の影響下にあったということ。そして、彼を批判した者は、皇帝夫妻が信頼する人々のリストから直ちに外された。

 ラスプーチン暗殺の最初の試みは、1914 年になされた。2回目は2年後で、殺害は成功した。殺害者らは犯行を否定しなかったが、厳罰は被らず、皇帝の退位後、事件は沙汰止みとなった。では、殺人犯はどんな人物だったか? 

フェリックス・ユスポフ公爵(1887~1967年)

 フェリックスは、ユスポフ家の最後の公爵であり、ロシア帝国最高の貴顕にして富豪の相続人だった。フェリックスの暮らしぶりは、ラテン語で「幸せ」を意味するその名にふさわしかった。彼はオックスフォード大学で学び、非常に芸人気質なところがあって、コスプレを大いに好んだ。あるとき、パリの女性歌手を装って、レストラン「水族館」でパフォーマンスする契約を結んだ。そして、正体がばれるまで、コンサートを成功させていた。フェリックスは、母親から借りた見事な宝石で身元が割れてしまった。

 1914年、若き公爵は、皇室ロマノフ家と縁戚になった。ニコライ2世の姪、イリーナ・ロマノワと結婚したからだ。結婚祝いに夫妻は、皇帝から珍しい贈り物をもらった。劇場の皇室のボックスを用いる許可だ。

 フェリックスは、ラスプーチンが皇室に及ぼしている影響を認識し、彼を排除する必要があると判断して、陰謀と殺人に加担した。それは、彼自身の宮殿で起きることとなる。“長老”は「坊っちゃん」(ラスプーチンはフェリックスをこう呼んでいた)を信用しており、それが致命的な役割を果たした。ラスプーチンが何ら疑うことなく彼を訪ねると、そこでは共謀者たちが待ち構えていた。

 ロシア革命後、ユスポフ家は、ロンドン、次いでパリに逃れ、そこでファッションハウス「IRFE」を立ち上げた。1928年にフェリックスは、ラスプーチン殺害について記した回想録を出版したが、常にそこに語られている「真実」にのみ固執した。この点に関する憶測や空想は断固として斥け、訴訟も辞さなかった。

 たとえば、1930年代初頭にフェリックスは、訴訟でハリウッドを動揺させた。自分の妻が“長老”の愛人として描かれた映画『ラスプーチンと皇后』(邦題は『怪僧ラスプーチン』)が公開されると、フェリックスは、MGMスタジオに名誉毀損のかどで2万5千ポンドを支払わせた。

 ユスポフは生涯を通じて、彼と同様に亡命した同胞たちを助けた。金銭、仕事、宿泊施設を提供し、ロシア赤十字社のために資金を集めた。しかし、彼はロシアに戻ることはなかった。

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ドミトリー・パーヴロヴィチ大公(1891~1941年)

 彼は、ニコライ2世の従弟に当たり、モスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の家庭で育った。セルゲイ大公が暗殺されると、ドミトリー大公は皇帝の後見を受けることになった。優れた騎手だった大公は、1912年のストックホルム・オリンピックでロシア帝国チームを率いた。障害飛越団体で5位、個人競技で9位という成績を上げ、大公は、全ロシア・オリンピックを創設しようと思い立つ。この種の最初の競技会は、1913年にキエフで開催され、その 1 年後にはリガで開かれた。

 ラスプーチンは、意図せずしてドミトリーの運命に影響を与えた。皇后アレクサンドラ・フョードロヴナは、ドミトリーのラスプーチン対する否定的な見解を知り、彼と娘のオリガ大公女との婚約を許さなかった。

 ラスプーチン殺害を知ると、ニコライ2世の妻は激怒し、大公とフェリックスの即時逮捕を要求した。しかし、国民の動揺を恐れた皇帝は、速やかに従弟をペルシャに派遣した。革命後、ドミトリーは、ヨーロッパとアメリカに住み、ココ・シャネルとの激しい恋も経験している。シャネルの香水として有名な「NO.5」を作った調香師エルネスト・ボーを、パリのファッション界の女王に紹介したのは彼だ。

 大公はラスプーチン殺害については決して語らなかった。 

ウラジーミル・プリシケヴィチ(1870~1920年)

 彼は、右翼の君主主義組織「ロシア人民同盟」の指導者の一人で、「大天使ミカエル(神使ミハイル)・ロシア人民同盟」の創設者であり、ドゥーマ(下院に相当)の議員だった。ウラジーミル・プリシケヴィチの名前は、スキャンダルと切り離せない。彼は、スキャンダルを好み、それをうまく利用する方法を知っていた。退屈な会議はすべて政治的な茶番劇に変わった。プリシケヴィチは、議場から力ずくで連れ出されると、警備員の肩に乗り、腕組みをしつつ議場から「悠然と退場した」。

 しかし、第一次世界大戦が勃発すると、彼のこうした悪ふざけは鳴りを潜めた。彼は、病院列車を組織して、自らもそれに乗って前線に向かい、負傷者を避難させ、食料や衣類を届けた。1916年11月、彼は演説のなかでこう叫んだ。「ロシア全土が等しく、ラスプーチンがもたらす恐怖を注視している――皇宮の部屋には、彼が、聖なる『消えざる灯』さながらに居座っている」。間もなくフェリックス・ユスポフ公爵が陰謀に加わるよう彼を誘った。

 革命後、元ドゥーマ議員は、反ボリシェヴィキ運動を組織しようと試み、ラスプーチン殺害について記した日記を出版した。1920年1月に彼は、発疹チフスのために、ノヴォロシースクで亡くなった。

スタニスラフ・ラゾヴェルト(1887~1976年)

 ラスプーチンに出すエクレアに青酸カリを仕込んだのはラゾヴェルト だ。彼は、プリシケヴィチの病院列車の主任医師だった。共謀者らによれば、ラゾヴェルトが“長老”の死亡を確認するはずだったという。しかし、この事件の状況は、不明な点が依然多く、共謀者らの証言はすべて一致しているわけではない。

 一説によれば、ラゾヴェルトは、故意の殺人をためらい、エクレアに青酸カリを入れなかったという。そのせいで、ラスプーチンは、エクレアをトレイごと平らげた後でも、少しも気分が悪くならなかったのかもしれない。

 ロシアを去った後、ラゾヴェルトは米国とパリに住み、陰謀についての回想録も出版した。

セルゲイ・スホチン(1887~1926年)

 第1歩兵近衛連隊の中隊長、セルゲイ・スホチンは、最初の妻でピアニストのイリーナ・エネリからユスポフ夫妻に紹介された。ちなみに、スホチン夫妻の娘ナタリアは、洗礼に際しユスポフ夫妻に代父母を務めてもらっていた。

 陰謀に加わったスホチンは、殺害を決行した後に、容疑をそらすために“長老”になりすましてオープンカーでその邸宅に向かう手はずであり、その後で、モイカ河岸のユスポフ宮殿から死体を運び出すはずだった。実際にラスプーチンを殺すと、スホチンとラゾヴェルトは、遺体を川に運んだ。

 革命後、彼は収賄罪で告発され投獄された。釈放後、彼は、作家レフ・トルストイの邸宅・博物館「ヤースナヤ・ポリャーナ」の創設に協力し、トルストイの孫娘ソフィアと二度目の結婚をした。しかし、それから間もなく、彼は脳卒中を起こして、パリに移されて、そこでフェリックス・ユスポフに世話された。

 ラスプーチン殺害で彼が果たした役割は、ユスポフの回想録が出版されて初めて知られるようになった。ウラジーミル・プリシケヴィチは、スホチンについては、その回想の中で「S中尉」としか言及していなかった。

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