グリゴリー・ラスプーチンと皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ(右)
ロシア国立アーカイブ/Public DomainボニーM (Boney M)は、「怪僧ラスプーチン」(1978)で、「ラ-ラ-ラスプーチンはロシアの皇后の愛人」と歌った。皇帝ニコライ2世の一家の「精神的指導者」、グリゴリー・ラスプーチンについての歌で、世界的にヒットした。
ラスプーチンが皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの愛人だという噂は、彼の生前から――1912 年初めから――盛んに広まった。帝都サンクトペテルブルクでは、このネタに関するポルノ的な風刺画、物語、詩などが、社会の各層に流布した。二人が愛人関係にあったというのが、ラスプーチンに関する主な神話だ。
ラスプーチンは、好んで皇室への影響力を自慢し、さまざまな噂が飛び交った。しかし、皇后との性的関係についての噂は事実無根だ。長い間、皇后からの「精神的指導者」への私信とされるものが根拠とされてきた。
「師よ、あなたがいないと、何と屈託することでしょう。あなたが私のそばに座って、私はあなたの手に口づけし、頭をあなたの至福の肩にもたせかける時だけ、私の心は安らぎ、休息することができるのです。…そして私はいつも同じことを望むのです。眠ること、あなたの肩にもたれ、あなたの腕のなかで永遠に眠ること」
こう手紙には記されている。手紙は、イリオドール(セルゲイ・トルファノフ)の本『聖なる悪魔』に載せられている。この本は、ラスプーチンを誹謗中傷している。
イリオドールは、1912年までラスプーチンと友人だった正教会の修道士で、この年、二人は激しく対立した。
しかし、かりにこの手紙が本物であったとしても、ラスプーチンと皇后が二人きりになったケースは記録されていない(皇后とラスプーチンが、冬宮でもそれ以外の場所でも、使用人や目撃者なしで二人きりになることはあり得なかった。ラスプーチンの宮殿訪問はいずれもその都度しっかり文書に残されていた)。
この噂には、他に確たる根拠はない。皇室の日記と書簡にも、ラスプーチンと皇后の親密な関係を示唆するものはまったくない。1917年の二月革命で成立した「臨時政府」の臨時調査委員会(皇帝専制の犯罪を調査するために設置された)も、二人の関係に関心を抱いたが、その委員も、証拠を見つけられなかった。おそらく、この手紙は単にでっち上げられたものだろう。
ラスプーチンに対しては、他の非難もあり、それは再三繰り返された。非難した者のなかには、下院(ドゥーマ)の議員もおり、要するに、ラスプーチンが皇帝ニコライ 2 世とその政策を、自分の影響力で左右しているというのだ。それは多くの著書や回想録で言及されている。しかし、物事はそれほど単純ではなかった。
皇后アレクサンドラは、夫、ニコライ 2 世への私信のなかに、ラスプーチンの、戦局、人事その他の政治的決定についての意見をしょっちゅう書いている。夫妻の往復書簡のなかで、彼女はラスプーチンを「私たちの友人」と呼び、その後に「友人」の助言が書き連ねてあった。
ラスプーチンの影響力は、 1905 年以降急速に高まった。これは、第一次革命が起こり、ロマノフ家が脅威にさらされたときで、こうした状況はさまざまな勢力を刺激した。
だが、ラスプーチンの助言は、ツァーリによってどのくらいしばしば考慮されたのだろうか?どうやらあまり頻繁ではなかったようだ。歴史家セルゲイ・オリデンブルグは、皇后が夫に宛てた手紙を研究して、彼がラスプーチンの忠告に従ったかどうかを調べた。分析の結果、ニコライ2世は、優柔不断で知られるものの、原則的な問題においては、「友人」の「指導」に従わなかったケースが多いことが分かった。これは、ラスプーチンの影響力が非常に広範に及んだという仮説に矛盾する。
ラスプーチンと支持者たち、1914年
Karl Bulla/Public Domain警察は特別に、「ツァーリの修道士」の監視体制を築き、ラスプーチンの言動に関する資料を集めた。これらの資料には、ラスプーチンの娼婦買いとドンチャン騒ぎについて記されている。
しかし、彼が宮廷の女官など皇室に近い女性たちとともに、宮廷で乱交したという噂は確認されない。これについては、臨時政府の臨時調査委員会の調査官、ウラジミール・ルドネフが、1917年にすべての証言、資料を読んだ後で、こう記している。
「…しかし、ラスプーチンの漁色は、娼婦や歌手との乱倫――時には自分のもとへ相談に来る女性とのそれ――の域を超えていないことが分かった。貴婦人たちとの『親密さ』に関しては、監視と調査によっては、何ら証拠は得られなかった」
もっとも、上流社会の一部の女性たちは、証言の中で、ラスプーチンとの性的関係を認めたが、乱交の噂は否定した。
こうした、ラスプーチンについての否定的な情報はすべてニコライ2世に提出された。しかし、皇帝一家では、ラスプーチンはほとんど家族の一員とみなされていたため、皇帝はこうした調査を家庭生活への不届きな干渉と考えた。皇后は、「長老」の乱倫、乱酔についての話は信じず、彼は聖者だと思っていた。
皇太子アレクセイを治療するラスプーチン、映画「怪僧ラスプーチン」からのシーン
John Kobal Foundation/Getty Imagesラスプーチンの癒しについては、彼の乱交に劣らず語られてきた。ヒーラーとしての評判のおかげで、彼は皇室に近づき、すぐに宮廷になくてはならぬ人物となった。当時、ニコライ2世の一人息子、皇太子アレクセイの血友病を医学では治せないことが明らかになっていた。
わずかな打撲でさえ、内出血を引き起こした。それが数日間続き、耐え難い苦痛をもたらすこともあった。しかし、ラスプーチンに会った後、皇太子の気分が良くなったという多くの証言がある。彼は皇太子の「薬」だった。
「彼(ラスプーチン)は、宮殿にやって来て、皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチのところへ両親(両陛下)とともに行った。両陛下のお話によると、彼はベッドに近寄り、皇太子に十字を切り、両親には、何も深刻なことはない、何ら心配には及ばない、と伝えて、くるりと向きを変えて去っていった。出血は止まった」。アンナ・ヴィルボワ(皇后アレクサンドラと極めて親しかった女官)は、こう回想している。
しかし、ラスプーチンの治癒能力については別の意見もある。彼を山師と決めつけ、ただうまく皇后の信頼を得ただけだと言う者もいる。一方、府主教ヴェニヤミンのように、ラスプーチンは「催眠術師でもペテン師でもなく、実際に自分の能力で人々に働きかけた」と言う者もある。当時の人々は、いずれにせよ「長老」の言動には説得力があり、それにふさわしい外見をもち、相手を「麻痺させるような」強烈な眼差しをしていると語っている。
どうやら、ラスプーチンは、何らかの形で皇帝一家と皇太子に影響を及ぼし、祈りと会話で彼らを落ち着かせることができたらしい。しかし、確実に言えることは、ラスプーチンがアレクセイを血友病から救ったわけではないこと。この病気が最後に悪化したのは、1918年、シベリアのトボリスクでだった。ラスプーチンは既に殺害されており、皇帝一家の非業の死の数ヶ月前のことだった。
生前、ラスプーチンはヒーラーとしての評判を得ていたが、死後には、予言者のレッテルも貼られた。とくに、革命、ロマノフ家の死、第二次世界大戦を予見したことで知られる。
ラスプーチンの予言については、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの覚書がよく言及される。彼女はそこに「霊的指導者」の考えを書き留めていた。また、1912 年に出版されたラスプーチンの小冊子『敬虔なる思索』も引き合いに出される。
しかし実際には、そのいずれにも予言などはない。自分の殺害はロマノフ王朝の終わりを意味する、という「ツァーリの修道士」の最も有名な予言は、彼の娘マトリョーナの証言によるものだ。
「私がいなくなったら、宮廷もなくなる」と、彼は警告したという。しかし、ラスプーチンが実際にこう言ったとしても、それは一つの方便だったと解することもできる。当時は、さまざまな勢力が彼を宮廷から追い出そうとしていたので、こういう言葉は、彼が皇帝一家と親しい関係にとどまる助けになったとも考えられよう。
さらに、ラスプーチンの「予言」の多くが実現しなかったことも考慮する必要がある。たとえば、彼は、第一次世界大戦での迅速な勝利と皇太子アレクセイの即位を確言していた。
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