ロシア女性のヘアスタイル:髪型を通して見る歴史と文化の移り変わり

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ロシアの貴婦人は、18世紀初めに三つ編みをやめ、フランスやイギリスのファッショニスタの髪型を真似るようになった。それはどんなものだったか?

  古代から、ロシア女性の髪は、体の神聖な部分と考えられてきた。既婚女性にとっては、誤って髪を他人に見せたり、頭飾りを失ったりすることは、ひどく恥ずべきことだった。ここから、「опростоволоситься 帽子を被らずに頭髪を露わにする → へまをする、しくじる」という言葉が生まれた。しかし、未婚の乙女は、長い三つ編みを人に見せてもかまわなかった。

「ヴォロスニーク」の時代

 ロシアでは古代から、女子の三つ編みが長くて太いほど、花嫁候補として垂涎の的だと信じられていた。髪は三つ編みにして、背骨の線に沿って真っ直ぐ垂らす必要があった。未婚の女子は、頭頂が開いた帽子をかぶることを許されていた。髪の量が多く、それが長く太い三つ編みに編まれると、健康のしるしであるだけでなく、女性の知恵の象徴とも考えられていた。

 若い女性は、そろそろ結婚しようかなと思うと、明るいリボンが三つ編みに織り込まれた。リボンが2つになって、それらが真ん中から三つ編みに織り込まれると、これは、その娘がすでに仲人によって「約束」がなされており、結婚式の準備が進んでいることを意味する。

 結婚式の前には必ず「三つ編みを弔う」民間の​​儀式があり、それは、「デヴィチニク」(結婚前夜に友人知人を招く別れの宴)の一環だった。花嫁介添人たちは、花嫁の三つ編みを解き、儀式の歌に合わせて、それを2本の三つ編みに編み直して、頭に置き、その上に「ヴォロスニーク」(髪に直接置く頭飾り)をかぶせた。

 この小さな帽子は、上質な絹でできており、「オチェリエ」がついていた。これは布製のリボンで、後頭部で結ばれる。「オチェリエ」には、「お守り」の模様が刺繍されていた。それは植物の模様で、「生命の樹」を象徴する。

 「ヴォロスニーク」は女性にとって大きな意味があった。髪をその下に押し込んだ瞬間から、たとえ、その後結婚式が破談に終わったとしても、彼女は既婚女性とみなされた。

 逆に、年配の未婚女性が三つ編みを解いたり、「ヴォロスニーク」をかぶったりすることは許されなかった。彼女たちは、プラトーク(ショール)で頭を覆っており、既婚女性の帽子(頭飾り)の「ソローカ」や「ポヴォイニク」の着用は禁じられていた。また、女子が三つ編みを切った場合、それは婚約者の死を悼み、結婚の意志がないことを表わしていた。

 結婚式の後、女性の髪は、他者の目から、さらには夫からも永遠に隠された!夫が妻の髪を見ることができたのはベッドの中だけだ。妻の髪は、2本の三つ編みに編まれていた。それは夫と妻の結合を象徴した。「ヴォロスニーク」からは、髪の毛が1本たりともはみ出てはならず、その上にさらにプラトークをかぶり、必要に応じて頭飾りを付けた。こめかみも剃った。 

パリの影響

 18世紀初頭、ロシア社会は分裂し始めた。農民と商人の階層では、依然として古い秩序が生きており、男性と女性の伝統的な髪型も残っていた。だが、首都および大都市の貴族社会は、ヨーロッパの風俗に従って生活し始める。彼らは、三つ編み、「ヴォロスニーク」、「ポヴォイニク」などは永久に忘れ去った。 

 ロシアの貴婦人の髪型の規範は、ピョートル大帝(1世)以来、フランスのファッショニスタ、たとえばルイ14世の愛妾、マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ(1661~1681年)が決めた形となった。通例の狩猟の間、彼女は、乱れた髪をレースの片で結んだ。王はこの髪型を褒め、アンジェリクにいつもそうするようにと言った。そして、その翌日、宮廷の女性たちは、「フォンタンジュ」の髪型で宮廷にやって来た。

 時とともに、「フォンタンジュ」は、頭上により高く突っ立ち、奇妙なものになっていった。髪そのものも、レースも、安定させるために、髪粉と澱粉で固定された。

 「フォンタンジュ」は、1690年代にロシアに登場し、外国人たちの妻や娘がこの髪型にしていた。「フォンタンジュ」用のレースは、ピョートル大帝の妹ナタリア・アレクセーエヴナも持っていた。エカチェリーナ1世(ピョートルの妻)も同様のレースをパリから注文した。

 ところが早くも1710年代には、「フォンタンジュ」の流行は、ヨーロッパでは突然下火になった。1713年、イギリスのシュルーズベリー公爵夫人が、老いたるルイ14世の前に、シンプルな髪型で現れた。滑らかにスタイリングされた髪と流れるようなカール。その瞬間から、シンプルなヘアスタイル――髪に花束やリボンを織り込むこともあった――が、欧州の貴族の間で一般的になった。もっとも、ロシアの一部の年配女性は、1720年代まで「フォンタンジュ」を続けたが。

再び単純から複雑へ

 18世紀後半には、高く盛り上げた複雑なヘアスタイルと鬘が流行した。これらは、ルイ15世の愛妾、デュ・バリー夫人や、ルイ16世の妻マリー・アントワネットによって流行った。しかし、ロシアでは、貴婦人にとって幸運だったことに、1760年代からエカチェリーナ2世(大帝)が統治していた。彼女は、身長約160センチで、高い髪型はコミカルに見えただろう。

 したがって、エカチェリーナの下では、貴婦人は、高い鬘、高い髪型、高く盛り上げたシニヨンなどは用いなかった。そして、フランス大革命の後、それらは欧州でも消えた。

 革命の反響は、「犠牲者」という髪型(国民公会の時代にギロチンで処刑された犠牲者を思い出させた)の人気にも及んでいる。後頭部は短く刈り込まれて、ほぼ剃り上げられ(首が露出するように)、残りの髪はあまり短くカットされず、前にとかされた。

この髪型は、男女双方に見られた――「ティトゥス風」の髪型と同じように。「ティトゥス風」は、ヴォルテールの悲劇『ブルータス』の主人公、ティトゥス・ユニウス・ブルトゥス(*共和政の創始者ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの息子で、共和制打倒の陰謀に巻き込まれ、父により処刑される)のイメージを真似たものだ。

 1830年代になると、ファッションは再び複雑になった。髪はこめかみでカールさせ、頭頂部または後頭部でお団子状にまとめられるようになる。「アポロ・ノット」の髪型では、髪は頭上に高く「バスケット風」にまとめられ、ワイヤーフレームで補強された。

 さて、1837年に、英国のヴィクトリア女王の戴冠式が行われた。彼女は、滑らかな黒髪をしていた。戴冠式で彼女は、「クロチルド」の髪型を選んだ。2つの三つ編みを耳のまわりに巻き付け、髪を滑らかにとかした。この髪型は、1830年代~1840年代にロシアの貴婦人の間にも広まった。

 19世紀半ばには、こめかみや耳の近くのボリュームのあるカール、後頭部の「お団子」がまだ流行っていたが、このような複雑な髪形にできるのは、美容師を利用する時間とお金のある貴婦人だけだった。

 欧州の女性とロシア貴族は、シンプルで滑らかな髪型のヴィクトリア女王によって、またも「救われた」。ヴィクトリア朝時代には、控えめで賢い女性、つまり「家庭の天使」の理想が育まれたので、高く盛り上げた複雑な髪型は、それにそぐわなかったからだ。真珠をつないだ鎖や額の装飾、つまり「フェロニエール」で髪を飾ることは許された。

 1870年代に、ふかふかしたヘアスタイルと、巻き毛を加える髪型が、流行に戻って来た。こめかみの前と上の髪は、ボリュームを加えるために高くとかされ、頭のてっぺんでは、ループ(輪)または三つ編みにされ、後ろの髪は長いカールで垂らされた。

 しかし、概して20世紀初頭には、女性のヘアスタイルはすでに非常に多様化しており、さまざまな時代のファッションから影響を受けていた。

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