レニングラード包囲戦:ボリス・クドヤロフの写真で見る

レニングラード守備隊の兵士。1941~1944年

レニングラード守備隊の兵士。1941~1944年

Boris Kudoyarov
 900日間にわたる包囲中、この写真家は、包囲された都市で活動した。彼の「レニングラード・シリーズ」は、軍事写真報道の古典となっており、レニングラード(現サンクトペテルブルク)市民の人間的偉業を今に伝える貴重な証言だ。

 900日間にわたるレニングラード包囲の間に、この都市のソ連国民が体験した悲劇を現代人が完全に理解することは不可能だ。市内では食糧供給が断たれ、電気、水道、暖房に深刻な極まる問題が生じた。

 市民は、文字通りあらゆる手段でなりふり構わずサバイバルすることを強いられた。本や家具を燃やして暖をとり、ネヴァ川の氷を溶かして洗濯し、壁紙の糊でスープを煮る…。1941年9月から最終的に包囲が解かれた1944年1月27日までに、100万人以上が亡くなった。

 ボリス・クドヤロフは、コムソモリスカヤ・プラウダ紙の従軍記者だった。包囲下の都市で、彼は3千枚以上の写真を撮り、一般人と第一線で防衛に当たる戦士、双方の日常を撮影した。彼の思いがこもった画像のおかげで、現代人は、今や遠い過去の、しかし第二次世界大戦の最も恐ろしい出来事の一つについて、ある程度理解することができよう。

巨匠のユニークな写真をご覧いただきたい。

薔薇の代わりにキャベツを栽培。1942年
包囲下のネフスキー大通り。1943年
プーシキン市(旧離宮ツァールスコエ・セロー)。アレクサンドル宮殿。1944年(レニングラード近郊のこの街は、ナチスに占領されていた。彼らは、旧離宮の庭に多数の墓を残していった)。
ラドガ湖。食糧をレニングラードに運ぶ。1942年

第1防空砲台、すなわち聖イサアク大聖堂。1941年
包囲下のレニングラード。砲撃後の負傷者の避難。1943年
包囲下のレニングラードの街角。1942年(ビラには「敵はレニングラードに迫っている」、「総力を挙げて故郷の都市を防衛せよ!」などと書かれている)
市民と軍人が指令を読む。それは、レニングラード戦線の部隊にレニングラード解放を命じていた。1944年
レニングラード守備隊の女性兵士。1941~1944年
包囲下のレニングラードの街角。1941~1943年
包囲下のネフスキー大通り。1941年
防空砲台の女性兵士。1941~1944年
包囲下のネフスキー大通り。1941年 (塀に「静かに通行せよ。危険。不発弾」と書かれている)
ネフスキー大通りが砲撃される。1942年
疎開。1941年
撮影技師。包囲下のレニングラードの街角で。1941年
ドミトリー・ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」の演奏。レニングラード・フィルハーモニーの大ホールで。1941年。
包囲下のレニングラードの路上で。1941年
図書館大学屋上の防空哨戒。1941~1944年
レニングラードの路上で。1942年
宮殿河岸通りの水兵たち。1942年
授業は続く。1942年
包囲下のネフスキー大通り。1941~1944年
包囲下のレニングラードの街角。1942年(プラカードに「赤軍兵士、助けて!」とある)
レニングラードの封鎖完全解除のための戦闘。ドイツ軍の第1防衛線。1944年
プルコヴォ地区における戦闘。1944年
包囲下のレニングラードの街角。新しい新聞を求めて。1942~1943年
壮麗な噴水で名高い離宮ペテルゴフ。崩壊したファサード。1943年

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