コンスタンチン・マコフスキー「お茶会」
Ulyanovsk Regional Art Museumアレクセイ・ヴェネツィアーノフ「トベリ州の農民の娘」
Russian Museumピョートル大帝(1世)以前の時代には、女性の健康は、身体の豊満さと同義だった。貴族やストレリツィ(銃兵)の妻たちは、今で言うところの、ボディ・ポジティブを支持者であり、外国人たちは、それについて率直に次のように指摘した。
「ロシア人たちは、太っていることが女性の美しさだと考えている。…小さな足とか細い体つきは醜いと思っている。…痩せた女性は不健康だと思っているのだ」
宮廷医サミュエル・コリンズは驚きを込めてこう記している。その一方で、外国人は皆、ロシア女性の非常な肉体美にも注目している。
「女性は中背で、概して美しく体格が良く、顔も体つきも柔らかみがある」。1630年代に、数学者、地理学者で旅行家のアダム・オレアリウスはこう書いている。
カール・ヴェニヒ「ロシア女性」1889年
Russian Museum 外交官ヤコフ・ライテンフェルスも、「モスクワの女性はすらりと背が高く、美しい顔立ちをしている」と述べており、同様の意見だ。
ロシア女性の美に関するこうした観念は、すべての社会階層に共通していた。農村の女性の生活は、過酷な肉体労働に満ちており、それは、並外れた強靭さを必要とした。そこで、美の理想は「ふくよかさ」、つまり子孫を残す能力だと考えられていた。
貴族の間では、女性美の理想が18~19世紀にかけてより「ヨーロッパ的」に変わったが、庶民の間では、こうしたイメージが長い間意味をもち続けた。
「女性美の基準は、滑らかな歩き方、穏やかな眼差し、高い身長、豊かな髪、ふくよかさ、丸み、そして血色の良さだ」。20世紀初めにテニシェフ公爵は、ウラジーミル県(現在はウラジーミル州)の農民女性についてこう書いている。
多くのおまじないが証明しているように、ロシア女性自身も豊満でありたいと思っていた。
「どの草よりも背が高く、どんな美しい花よりも綺麗で、誰よりも色白で、血色が良くなるように」
「肩は幅広く、胸は大きく、顔は丸みを帯び、頬は血色が良くなるように」
ニコライ・テルプシホロフ「ヴォログダ州の家」、1925年
Public domain1680年代にモスクワに住んでいたチェコのイエズス会士イルジ・ダヴィドは次のように書いている。ロシア女性は、「高い靴を履いて、静々と滑らかに歩く。そのため、速く走ったり歩いたりすることができない」。
貴族女性についても、挙措や歩き方がゆったり滑らかであることが大いに評価された。貴婦人は、子供の頃からこのように歩くよう教えられた。とはいえ、歴史的資料には、ロシア人が女性の無為怠惰を良しとしていたとは記されていない。
それどころか、例えば、商人の歴史に関する資料によると、ピョートル大帝以前の時代も含めて、女性が資本と生産を自ら管理することが多かった。農村の共同体では、「おかみ」、つまり年配の女性の世帯主が、村の集会に十全な資格で参加していた。
ロシア女性の歴史を研究するナタリヤ・プシカリョワは次のように書いている。「妻の理想は、何らかの職業に就いていない、家事に熱心に取り組む女性だった」
また、謙虚さと信心深さ(穏和さ)が、真の女性に欠くべからざる資質として重んじられた。プシカリョワが書いているように、「『良い妻』とは、『従順で、謙虚で、穏やかな』妻を意味した」。
貴族と商人の妻も、帝政時代には、この理想に忠実であろうと努めた。若い貴婦人は、謙虚さ、優雅さ、そして洗練されたマナーを躾けられた。一方、商人の娘や妻は非常に信心深かった。
ジナイーダ・セレブリャコワ「化粧台にて。自画像」1909年
Tretyakov Galleryロシア女性は皆、収入の程度に関係なく、顔や身体の手入れをしており、ただ、その手段と方法が違うだけだった。すべての家庭に――たとえ貧しくても――、バーニャ(蒸し風呂)があった。週に1~2回、数人または家族全員で風呂で身体を浄めた。暖かい季節には簡単に体を洗うこともできた。寒い季節には、特別にバーニャを焚くことなく、少し冷えたペチカ(暖炉)の中で体を洗えた。灰汁(あく〈*灰を水に浸してできた、アルカリ性の上澄み液〉)は、当時すでに、衣類を洗濯したり身体を洗うのに使われていた。
気分を良くするためや、顔と体を白くするために、効果があるとされた民間療法が用いられた。乳清(ホエー)、キュウリのピクルスの浸し液、ハーブの煎じ薬などが使われた。
エカチェリーナ2世(大帝)の意見では、自然に血色を良くする最適な民間療法の一つは、氷で顔を擦ることだ。皇帝官房秘書官アドリアン・グリボフスキーの記すところによると、彼女は、帽子を頭にとめる間に、毎日氷で顔を拭くよう命じた。この女帝の治世にロシアを訪れたアイルランド人女性マーサ・ウィルモットは次のように書いている。
「毎朝、グラスほどの厚さの氷の板を私のところに持ってきた。私は、“本物のロシア人女性”のようにそれを頬にこすりつけた。そうすれば顔色が良くなると、人々は請け合った」
ワシーリー・スリコフ「三つ編みの女の子。 A. ドブリンスカヤの肖像」1910年
V.I. Surikov Art Museum, Krasnoyarsk木または骨でできた櫛は、男性にとっての髭の櫛と同じように、女子にとって価値あるものだった。櫛には太陽のシンボルがあしらわれており、髪をできるだけ長く伸ばそうと、毎日長時間とかして三つ編みにしていた。髪は女性の主要なシンボルの一つであり、未婚の女子は、髪を一本の三つ編みに、既婚女性は二本の三つ編みに編んだ。夫が亡くなった場合、三つ編みは喪のしるしとして切り取られた。乙女が結婚するときに、その友だちが花嫁のために、三つ編みを二本に編み直す儀式は、古来より伝わる女性の通過儀礼の一つだった。
女性たちは入念に髪の手入れをした。つまり、サワーミルクや煮沸したクワス(黒パンでつくった清涼飲料水)で髪を洗い、イラクサやカモミールを煎じた液ですすいだ。
これに関連して重要なのは、貴族の女性の髪が帽子に隠されてまったく見えなかったことだ。夫だけが妻の髪の美しさを嘆賞し、それをとかす権利ももっていた。
アンドレイ・リャブシキン「17世紀のモスクワの少女」、1903年
Russian Museum古代のロシア人は、パウダー、口紅、白粉その他の化粧品をほとんど知らなかった。それらがロシア女性の間に広まったのは15~16世紀のことで、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の王女や中東の美女の風俗によって、ロシアのそれが影響された後だ。
「ロシア人女性は、化粧をする習慣があるので、夫は、妻に化粧具を与える義務がある。それは彼らの間ではごく一般的なことなので、ちっとも恥ずかしいこととはされていない」。16世紀の英国人アンソニー・ジェンキンソンはこう書いている。
「彼女たちは、あんまり顔にゴテゴテ塗りたくり過ぎて、遠距離からでも顔に塗料がついているのが見えるほどだ。粉屋の女房になぞらえるのが手っ取り早いだろう。なぜなら、彼女らはまるで小麦粉の袋を顔の近くで打ち破ったみたいに見えるからだ。しかし、眉毛は黒く塗りたくっている」
ちなみに、ロシア人女性がなぜこれほどの厚化粧を強いられたのかについては、ロシア・ビヨンドの別稿がある。
まもなくこうした流行は終わったが、それでも、19世紀でも現代ロシアでも、美人とされる人はメイクがすごく上手だ。16世紀にモスクワを訪れた英国詩人ジョージ・ターバーヴィルは次のように述べている。
「女性たちは、毎日化粧をすることで成功を収める。どんなに慎重な人でも、自分が見た女性の外見をそのまま鵜呑みにすれば、簡単に惑わされてしまうだろう。彼女らは、それほど見事にお化粧するのだ」
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