ルーシの女性はどんな化粧をしていたのか?

Mikhail Vrubel Omsk Museum
 多くの外国人が記録に残すほど、ピョートル大帝以前の時代の女性たちは化粧品を愛用していた。だが、その白粉(おしろい)や頬紅が有毒なもので、健康に大変な害を及ぼすことを彼女たちは知らなかった。

 ビーツの赤い汁液が塗られた頬、太くて黒い眉、頭にはココシニクと、ソ連映画ではこのような「ロシア美人」のイメージが支配的だった。このイメージは正しいとも言えるし、間違っているとも言える。

 北部ロシアにおいて婚礼の際の頭飾りであったココシニクが広まったのは、ようやく18世紀の後半に入ってからのことだった。モスクワ・ルーシ(モスクワ大公国)で一般的に着用されていたわけではないので、ココシニクを被った古代ロシア美人というイメージは「神話」である。また、ビーツやベリーの汁液を頬に塗ったのは農民の女性だけであり、身分の高い女性は、より高級だが、ビーツやベリーにも劣らず色鮮やかな化粧品を用いていた。

 眉には眉墨を引き、本当に黒く染めて太く見せていた。もっとも、この流行は現代にも見られるものだ。では、いったいどんな化粧品がルーシでは人気だったのだろうか?

「彼女は初め、頬紅を塗ろうとしなかった」 ロシア女性の化粧の習慣

 1617世紀のロシアでどんな化粧がされていたかについては、外国人の残した手記から知ることができる。彼らはロシア女性の美しさに魅了されると同時に、その「厚化粧」ぶりに驚愕していた。

 「女性たちの顔立ちはそれは美しく、多くの民族に勝るものだ」と、スウェーデンの外交官ハンス・アイルマンはロシア女性について書き残している(1669年)。1670年代にも、別のヨーロッパ人ヤコフ・レイテンフェリスがロシア女性の美しさについては同様に認めており、曰く「モスクワ・ルーシの女性はスタイルもよく、容姿端麗。だが、その生まれついての美貌を過剰な頬紅によって歪めている」。レイテンフェリスはまた次のようにも書いている「彼女たちの顔の輪郭は丸く、唇はふっくらとしている。眉は常に引かれていて、というより、そもそも顔全体余すところなく「描かれた」ように塗られている。皆が皆化粧をしているのだ。ここでは頬紅を塗るのはごく当たり前のことだと考えられている。その習慣の強さから、頬紅を塗らない女性は、みんなの前で特別な存在でありたいと願う傲慢な人間だと見なされかねないほどだ。なんとなれば、それはつまり、化粧をしたり人工的に粉飾せずとも自分は十分に美しいし華やかである、と図々しくも思っているのだから」。 

 このような「みんなの前で特別な存在でありたい」という例は実際にあり、1630年代にモスクワを訪れたドイツ人学者アダム・オレアリウスが書き残している。「名門大貴族イワン・ボリソヴィチ・チェルカスキー夫人は大変な美貌の持ち主で、彼女は初め、頬紅を塗ろうとしなかった。しかし、他の貴族夫人たちは事あるごとに彼女に詰め寄り、どうしてこの国の慣習を軽蔑し、自らの行動で他の夫人たちを侮辱するのか、としつこく彼女を問い質して苦しめた。そしてついには、彼女たちは夫の力を借りて、この生まれついての美貌をもつ女性に白粉と頬紅を塗ることを余儀なくさせた。言わば、よく晴れた日の昼間に、蝋燭に明かりを灯させたのだ」。イワン・チェルカスキーは当時の政府の長であり、ツァーリに次ぐ二番目の地位にある人物だった。そんな人物の妻にですら、上流階級の女性たちは化粧を軽視することを許さなかったのだ。

 外国人たちは、ロシアの女性たちはとても派手な化粧をしていた、と指摘している。「彼女たちが用いている頬紅は強烈な色で、わざわざ近づかなくても遠くからはっきりとわかるほどだった」と記しているのは前述のレイテンフェリスだ。「射撃をするような距離からでもその貼り付けられた色が見えるほど、彼女たちは顔を塗りたくっていた。粉挽き職人の妻にたとえるのが何よりもわかりやすい。なぜなら、彼女たちはまるで顔の近くで小麦粉の入った袋をはたきつけられたかのようだからだ」。

 そうは言っても、化粧にもその効能はあった。16世紀にモスクワを訪れた英国の詩人ジョージ・ターバベル曰く、「毎日化粧をすることで、彼女たちはある成功を収めている。それは、最も分別のある人間にさえ、容易に彼女たちの本当の顔をわからなくさせるのだ。もし、彼が見えているものだけを信じるのなら」。

「死に至る成分」 水銀、鉛、ヒ素

 頬紅などの化粧品がどぎつい派手な色をしていたのは、重金属をもとに作られていたからである。当時のロシア人は、彼らの化粧品がただ健康に良くないどころか、致死的でさえあることを知らなかった。ただ思い出してほしいのは、当時は上流階級の宴であってもその照明は非常に貧弱なものだったことである。そのため、女性たちは薄暗がりの中でも目立つコントラストの強い色を用いざるを得なかった。昼間の太陽の光のもとでは、このような化粧をした顔はカリカチュアのように誇張されて見えた

 「都市部では、女性の顔はまるで小麦粉を浴びせかけられたようで、頬紅は筆でべったりと塗り付けたようだった」と、1675年から1676年にかけてモスクワに滞在していたオランダ人バリタザル・コイエットが記しているように、当時のロシア女性は顔を白く塗っていた。鉛製の白粉は大昔から知られており、古代ローマの博物学者である大プリニウスが、「鉛を細かく削ったものに強い酢を加える」ことで白色顔料が得られると伝えている。

 鉛製の白粉を使えば、均一に肌を覆うことができ、まさに「真っ白」といった色が出る。しかし、流行を追う人々には、彼らが有毒な炭酸鉛を顔に塗っていることなど知る由もなかった。「23週間続く高熱や腹痛、吐き気に不眠症といった症状は、新鮮でない食べ物や、または悪意のある人間の呪いや祟りのせいにされた。しかし実のところこれは、体内に溜まった金属による「鉛中毒」の症状だった」と、ジャーナリストのマリナ・ボグダノワは指摘する。

 「まるでフクロウのようだ」と、太く黒い眉を引いたロシアの女性を評したのは、チェコの旅行家イジー・デイビットだ。眉墨は脂肪や油と混ぜて、睫毛と眉を黒く染めるのに使われたが、これはアンチモン (Sb)化合物 ではなく、方鉛鉱の粉末で、つまりは鉛と硫黄の化合物であり、鉛製の白粉と同様に肌を害し暗く変色させる。イギリスの外交官ジャイルス・フレッチャーは、モスクワの女性たちの「暗く病的な肌の色」について言及しているが、彼はこの理由を長い冬の閉じ込められた生活のせいだと考えた。しかし、フレッチャーは上流階級の女性としか交流がなかったことを考えれば、彼女たちの肌が暗く変色していたのは、鉛製の白粉を常用していたせいだと考えることができる。

 その色鮮やかさについて外国人が揃って言及している頬紅は、もちろん、植物から作られたわけではない。その成分には辰砂(しんしゃ・硫化水銀)が含まれていた。現在では、辰砂を扱う化学者は「換気システムの備わった器具の中で、ゴム手袋、眼鏡、防毒マスクを着用する」ように推奨されている。辰砂から発生する蒸気が有毒だからだ。だが当時は発色鮮やかな顔料として顔や髪の毛に塗られていた。塩化水銀(甘汞〘かんこう〙、カロメル、とも)も、肌を柔らかくするクリームの成分として用いられていた。

 水銀は最も強力な神経毒であり、日常的にその蒸気を吸い続けると精神に異常をきたす。ロシア美人は辰砂(硫化水銀)や甘汞(塩化水銀)を使っていたばかりでなく、歯を白くするため水銀そのものさえ使っていた。鮮やかな鉛製の白粉を塗った顔では、どんな歯であろうと黄ばんで見えてしまう。また貴族の女性は砂糖やキャンディーといった当時のルーシで最高級の甘味を嗜んでいたせいで虫歯になった。そこで、たとえば、結婚式の前などには水銀で歯を漂白することもあった。この処理から半年もすれば歯のエナメル質は剥がれ落ちてくる。そこで今度は炭でお歯黒をしたのだが、これは色が落ちるので、常に繰り返していなければならなかった。

 帝政ロシアの貴族アレクサンドル・ラジシェフは、水銀で傷んだ歯を隠すこの方法が、地方の商人家庭では18世紀末に至るまで続けられていたと指摘しており、「新婚の妻、パラスコビヤ・デニソヴナは白粉と頬紅を顔に塗っていた。歯はまるで炭そのもの。眉は糸のように細く、煤より黒い」と、1790年に書き残している。

 ロシアの女性たちはその美の追求が高じて、なんと「白色ヒ素」、つまり三酸化二ヒ素(亜ヒ酸)を食べてさえいた。麻薬のような効能、すなわち食欲亢進、気分高揚、労働能力向上といったものがあり、さらにその目はギラギラと輝き始める。体内に蓄積すると、ヒ素もまた人間をゆっくりと死に至らしめる。大量のヒ素、鉛、水銀が、イワン雷帝の妻など、16世紀のロシア皇后たちの遺体から発見されている。

 挙句の果てには、アルコールに煤を混ぜた顔料を目に差してさえいた。「ロシア人は白眼まで黒く染める秘密を知っている」と、皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチの侍医サミュエル・コリンズは驚きをもって記している。

 ただ、当時でも多くの人は、このような化粧品が健康を害することを理解していたと言っておかなければならない。前述のヤコフ・レイテンフェリスは、ロシアの化粧についての彼の記述をこう手厳しく締めくくっている。「偽りの美の報いか 老いが近づいた女性たちの顔には、深い皺が刻まれている」と。

 興味深いことに、歯や白眼を黒く染めたり、眉墨を引き白粉を塗るといった化粧は、モンゴル、中国、日本の美人に特徴的なものだ。南宋の漢人が著したモンゴルとタタールの見聞記である『蒙韃備錄(もうたつびろく)』(1221年)には、「モンゴル人の女性はしばしば額に黄色がかった白粉を塗っている。これはその昔中国から伝わったもので、今でも変わらずに残っている」と書かれている。そして、いわゆる「タタールの軛」以前に外国人が残したルーシについての記述には、派手な化粧について言及は見られない。このことから、ルーシの女性たちの今まで見てきたような化粧の流行は、かつて唐時代の中国(7−10世紀)からそれらを取り入れたモンゴル=タタールの上流階級から伝わったものと考えることができるのではないだろうか。

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